0. この記事の要点
Section titled “0. この記事の要点”- ブラウン運動の道は、ほとんど確実にどの区間でも有界変動になりません。したがって を道ごとのリーマン・スティルチェス積分として定義することはできません。原因は二次変分が ではなく になることです。
- 破綻の原因である二次変分は、同時に救いの手でもあります。分割の左端で被積分過程を評価すると、和の各項の期待値が消え、 ノルムがきれいに保存されます。これが伊藤積分です。
- 伊藤積分の構成は「単純過程で定義 → 伊藤等長性 → 稠密性 → 連続拡張」という関数解析の定型手続きで、 空間の完備性がすべてを支えます。
- 伊藤の公式は確率過程における連鎖律ですが、二次の項 が余分に現れます。この余剰項は二次変分そのもので、確率解析の計算のほとんどはこの 1 項の管理に費やされます。
- 係数がリプシッツ連続かつ線形増大なら、確率微分方程式は一意な強解をもちます。証明はピカール反復とグロンウォールの不等式という、常微分方程式と同じ道具立てで進みます。
- 応用として幾何ブラウン運動を解き、伊藤の公式からブラック・ショールズ方程式を導きます。
1. 動機:なぜ普通の積分では足りないのか
Section titled “1. 動機:なぜ普通の積分では足りないのか”ニュートン以来、微分方程式は自然を記述する言語でした。 は、時刻 における状態 が次の瞬間どちらへ動くかを完全に指定します。ところが現実の系は、決定論的な流れに加えてランダムな揺さぶりを受けます。花粉粒子は水分子の衝突で震え、株価は無数の注文に叩かれ、電子回路には熱雑音が乗ります。
素朴に書けば、こうした系は
の形をしているはずです。ここで は「時刻ごとに独立で、平均 、分散が無限大」という理想化された白色雑音です。ところがこの は、通常の意味での関数として存在しません。時刻ごとに独立な確率変数の族は、可測な道をもてないからです。
物理学者ランジュヴァンが 1908 年にこの形の式を書いてから、数学的に意味を与えるまでに 40 年かかりました。突破口は、 自体をあきらめて、その「積分」であるブラウン運動 を主役に据えることです。形式的に と読み替え、微分形式ではなく積分形式
を定義とします。第 1 項は各道ごとに普通のルベーグ積分として意味をもちます。問題は第 2 項です。
ブラウン運動の道 は連続ですが、後で見るようにほとんど確実に有界変動ではありません。リーマン・スティルチェス積分 が「あらゆる連続関数 に対して」定義されるのは、 が有界変動のとき、そしてそのときに限ります。つまり第 2 項は、道ごとの古典的な積分としては原理的に定義できません。
伊藤清が 1944 年に与えた解決は、道ごとの定義をあきらめ、確率変数の空間 における極限として積分を定義することでした。この記事はその構成を最初から最後まで追い、得られた道具(伊藤の公式)で実際に確率微分方程式を解き、金融工学の基本方程式に到達するところまでを扱います。
前提として、ブラウン運動の定義(ブラウン運動(ウィーナー過程)(定義 5.1)[マルチンゲールとブラウン運動])とマルチンゲールの基本性質を使います。必要なら マルチンゲールとブラウン運動 と 条件付き期待値 を先に確認してください。 空間の完備性については L^p空間と関数解析への導入 を参照します。
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