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スペクトル定理:対称行列はなぜ「回転だけ」で対角化できるのか

前提:内積空間とグラム・シュミット直交化:長さと角度を線形代数に持ち込む

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  • 行列の随伴 A=ATA^{*} = \overline{A}^{\mathsf{T}} は、成分をひっくり返す操作としてではなく、Ax,y=x,Ay\langle A\boldsymbol{x}, \boldsymbol{y}\rangle = \langle \boldsymbol{x}, A^{*}\boldsymbol{y}\rangle という 1 本の等式で特徴づけられます。随伴は内積が決めるものであり、内積を変えれば随伴も変わります。
  • A=AA^{*} = A を満たす行列(エルミート行列、実行列なら対称行列)の固有値はすべて実数で、異なる固有値に属する固有ベクトルは何もしなくても直交します。
  • スペクトル定理は「エルミート行列 AA に対して、ユニタリ行列 UU と実対角行列 Λ\Lambda が存在して A=UΛUA = U\Lambda U^{*} と書ける」と述べます。幾何的には、互いに直交する nn 本の軸をうまく選べば、AA はその各軸方向への伸縮でしかありません。
  • 座標変換がユニタリ(実なら直交)であることが決定的です。長さと角度を保ったまま対角化できるので、2 次形式の主軸、正定値性の判定、行列の平方根、主成分分析が、すべてこの一つの定理から出てきます。
  • 逆に、ユニタリ行列で対角化できる行列は正規行列 AA=AAA^{*}A = AA^{*} に限られます。エルミート行列とユニタリ行列は、その代表的な二つの部分クラスです。

1. 動機 — 対角化できても「座標が歪む」

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対角化とジョルダン標準形 で見たとおり、線形変換を対角行列で表すことは、変換を「いくつかの軸方向への伸縮」として理解することにあたります。しかし対角化にはいつも二つの障害がつきまといました。

例 1.1対角化を阻む三つの行列

次の 3 つの実行列を比べます。

N=(1101),R=(0110),B=(1102)N = \begin{pmatrix} 1 & 1 \\ 0 & 1 \end{pmatrix},\qquad R = \begin{pmatrix} 0 & -1 \\ 1 & 0 \end{pmatrix},\qquad B = \begin{pmatrix} 1 & 1 \\ 0 & 2 \end{pmatrix}

NN の特性多項式は (λ1)2(\lambda - 1)^2 で固有値は 11 のみですが、NI=(0100)N - I = \begin{pmatrix} 0 & 1 \\ 0 & 0\end{pmatrix} の核は span{(1,0)T}\operatorname{span}\{(1,0)^{\mathsf{T}}\} で 1 次元しかありません。固有ベクトルが 2 本取れないので、NN は対角化できません(対角化と固有基底(定理 3.2)[対角化とジョルダン標準形])。

RR の特性多項式は λ2+1\lambda^2 + 1 で、実数の固有値を持ちません。実数の範囲では対角化できません(複素数まで広げれば固有値 ±i\pm i で対角化できます。回転行列の固有値(例 4.8)[固有値と固有ベクトル] を参照)。

BB は固有値 1,21, 2 が相異なるので対角化できます。固有ベクトルは v1=(1,0)T\boldsymbol{v}_1 = (1,0)^{\mathsf{T}}v2=(1,1)T\boldsymbol{v}_2 = (1,1)^{\mathsf{T}} です。ところが v1,v2=10\langle \boldsymbol{v}_1, \boldsymbol{v}_2\rangle = 1 \neq 0 で、この 2 本は直交していません。BB を対角にする座標系は、直角に交わらない「斜交座標」です。

3 つ目が本記事の出発点です。対角化ができても、新しい座標軸が直交しているとは限りません。斜交座標では長さも角度も歪むので、「各軸方向に λi\lambda_i 倍しているだけです」と言われても、図形がどう変形するのかは読み取れません。逆に新しい座標軸が正規直交基底であれば、座標変換は回転や鏡映という剛体的な動きであり、そこで対角に見えることは変換の幾何を完全に把握したことを意味します。

そして驚くべきことに、応用で現れる行列の多くはこの「直交対角化」ができます。データの共分散行列、剛体の慣性テンソル、グラフのラプラシアン行列、量子力学のハミルトニアン、2 次形式の係数行列 — これらはいずれも AT=AA^{\mathsf{T}} = A(あるいは複素版の A=AA^{*} = A)を満たします。この対称性が、実固有値と直交固有ベクトルという二つの恩恵を同時にもたらします。本記事の目標は、この事実を定義から積み上げて証明し、応用まで運ぶことです。

注意 1.2

固有値の全体を「スペクトル(spectrum)」と呼ぶ用語は、ヒルベルトが 1900 年代に積分方程式論の中で導入したもので、量子力学よりも前のことです。後になって、原子が放つ光のスペクトル線が、ハミルトニアンという自己共役作用素の固有値として説明されました。本記事で扱うのは有限次元版ですが、証明の骨格(自己共役性から実固有値と直交性が出る)は無限次元でもそのまま生きます。

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