0. この記事の要点
Section titled “0. この記事の要点”- マクスウェルの悪魔とは、箱の仕切りに付いた小窓を開け閉めして、速い分子と遅い分子を選り分ける架空の存在です。仕事をせずに温度差を作れるので、熱力学第二法則を破っているように見えます。
- シラードは 1929 年に、この悪魔を「分子 1 個の箱」まで単純化しました。この装置は 1 サイクルあたり (室温で約 J)の仕事を取り出します。ちょうど 1 ビットの情報と引き換えです。
- 長いあいだ「観測にエネルギーがかかるから帳尻が合う」と説明されてきましたが、これは誤りでした。観測(測定)は原理的にはいくらでも小さいコストで行えます。
- 本当の代償は消去です。ランダウアーの原理により、1 ビットの記憶を消すには温度 の環境へ少なくとも の熱を捨てなければなりません。悪魔がメモリを空にして次のサイクルに入る瞬間、借金は必ず返済されます。
- 第二法則は破れません。ただしその防衛線は「情報は物理的な実体である」という、19 世紀には想像もされなかった場所に引かれていました。
1. 動機:19 世紀の物理学者が仕掛けたいたずら
Section titled “1. 動機:19 世紀の物理学者が仕掛けたいたずら”熱いコーヒーは冷めます。冷めたコーヒーがひとりでに熱くなることはありません。この当たり前すぎる事実を法則の形にしたものが、熱力学第二法則です。
しかし 19 世紀の後半、物理学者たちは困ったことに気づいていました。コーヒーが冷めるのは、水分子が容器や空気の分子とぶつかって運動エネルギーを渡していくからです。ところが分子 1 個 1 個の運動を支配するニュートンの法則は決定論的(定義 2.2)[ラプラスの悪魔と決定論]で、しかも時間の向きを持ちません。分子の衝突を撮影した映像を逆再生しても、力学の法則には何も違反していないのです。部品はどれも時間反転に対して対称なのに、組み上がった機械だけが一方向にしか進まない。 これはどういうことでしょうか。
ジェームズ・クラーク・マクスウェルは 1867 年、友人ピーター・ガスリー・テイトへの手紙の中で、この疑問を突く思考実験を書き送りました。のちに『熱の理論』(1871) で公にされたその筋書きは、こうです。
気体の入った箱を仕切りで 2 つに分け、仕切りに小さな窓を付けます。窓のそばに「非常に目のいい、非常に小さな存在」を配置します。この存在は近づいてくる分子の速さを見て、速い分子が右から来たら窓を開けて左へ通し、遅い分子が左から来たら窓を開けて右へ通します。それ以外のときは窓を閉じておきます。窓は摩擦なく軽く動くので、開け閉めにエネルギーは(ほとんど)要りません。
しばらく待つと、左室には速い分子ばかりが、右室には遅い分子ばかりが集まります。気体の温度とは分子の平均運動エネルギーのことですから、これは左室が熱く、右室が冷たくなったことを意味します。仕事をひとつもしていないのに温度差ができました。あとはこの温度差に熱機関をつないでやれば、いくらでも仕事が取り出せます。
マクスウェル自身は、この存在を悪魔とは呼びませんでした。「悪魔(demon)」という呼び名を付けたのはケルビン卿です。マクスウェルの意図は「第二法則は個々の分子には適用できない統計的な法則にすぎない」と示すことにあり、悪魔を実際に作れると考えたわけではありません。それでも問いは残ります。なぜ作れないのか。 その理由をきちんと述べるのに、物理学は 100 年以上を要しました。
2. 準備:エントロピーと第二法則
Section titled “2. 準備:エントロピーと第二法則”議論を進めるために、言葉を 2 つだけ固めておきます。
公理 2.1(熱力学第二法則(ケルビンの表現))
ただ一つの温度 の熱浴から熱を吸収し、それを全部仕事に変え、自分自身は元の状態に戻る、という循環過程を行う装置は存在しない。
「自分自身は元の状態に戻る」という条件が要です。1 回きりでよいなら簡単です。ピストンの中の気体を熱浴につないでゆっくり膨張させれば、吸収した熱はすべて仕事になります。しかしそのとき気体の体積は増えたままで、装置は元に戻っていません。元に戻すには圧縮が必要で、そこで仕事を返さねばならない。この「返済」から逃れる方法がない、というのが第二法則の主張です。
エントロピーは、この法則を数量で表すための道具です。
定義 2.2(ボルツマンのエントロピー)
系のマクロな状態(温度・体積などで指定される状態)に対応するミクロな状態の数を とするとき、その状態のエントロピーを
で定める。 をボルツマン定数という。
より一般に、ミクロ状態 が確率 で実現するとき、エントロピーは
で与えられる(すべての が等しく のとき、これは に一致する)。
の形をしているので、エントロピーは「その状態が、どれだけ多くの可能性を含んでいるか」を測る量です。逆に言えば、エントロピーが小さい状態とは、こちらが多くを知っている状態です。この読み替えが、後でそのまま情報の話につながります。
第二法則をエントロピーで書けば、「孤立した系全体のエントロピーは減らない」となります。悪魔が箱を熱い側と冷たい側に分けると、分子の配置の可能性は減りますからエントロピーは下がります。もしそれを埋め合わせるものが箱の外に何もなければ、第二法則は破れます。
3. 悪魔の設計図
Section titled “3. 悪魔の設計図”悪魔の装置をもう少し几帳面に描いておきます。
まず、選り分ける相手がどんなものかを見ておきましょう。
例 3.1(室温の空気分子はどれくらいの速さか)
窒素分子 の質量は kg です。温度 の気体の分子は平均して の運動エネルギーを持つので、二乗平均速度 は から
となります。 K(およそ 27 ℃)でおよそ 520 m/s、時速にして 1900 km ほどです。しかもこれは平均であって、実際の速さはマクスウェル分布に従ってばらついており、200 m/s 台の分子も 1000 m/s を超える分子も同時に飛び回っています。
さらに 1 気圧の空気では、1 個の分子が次の衝突までに進む距離(平均自由行程)はおよそ 70 nm しかありません。速さ 520 m/s を 70 nm で割ると、1 秒あたり 回を超える衝突が起きている計算になります。悪魔は音速の 1.5 倍で飛び回り、1 ナノ秒ごとに向きを変える相手を、1 個ずつ見分けなければなりません。
技術的には絶望的です。しかし物理学が知りたいのは「難しいか」ではなく「原理的に禁じられているか」です。そこで、悪魔が理想的に働けたとして何が起きるかを確認します。
命題 3.2(成功した悪魔は第二種永久機関を生む)
温度 の一様な気体の入った箱に、エネルギーを消費せずに分子を速さで選り分ける装置が取り付けられており、その装置が有限回の操作のあとに必ず元の状態に戻るとする。このとき、ただ一つの温度の熱浴から熱を吸収して全部仕事に変える循環装置が構成できる。すなわち公理 2.1に反する。
証明(命題 3.2)
装置を働かせて、左室の温度を 、右室の温度を ()にします。これは仮定により、外部から仕事を受け取らずに達成されます。
次に、左室と右室のあいだにカルノー熱機関をつなぎます。カルノー熱機関は高温側から熱 を受け取り、低温側に を捨て、差 を仕事として出します。これで正味の仕事が得られました。
熱機関を動かすと温度差は縮まり、やがて全体が一様な温度 に戻ります。ここで悪魔をもう一度働かせれば、再び温度差が作られます。この繰り返しは、悪魔が元の状態に戻るという仮定のもとで無限に続けられます。
1 サイクル全体を眺めると、箱の中の気体はもとの一様な温度 に戻り、装置も元の状態に戻り、外部には正味の仕事だけが出てきています。エネルギー保存則(熱力学第一法則)より、その仕事の源は箱の気体が持っていた熱以外にありません。つまりこれは、単一温度の熱浴から熱を吸って全部仕事に変える循環装置であり、公理 2.1が存在しないと述べたものそのものです。
命題 3.2が示すのは、逃げ道が 2 つしかないということです。ひとつは「第二法則は本当は破れる」。もうひとつは「悪魔は、仮定のどれかを必ず破る」。物理学が選んだのは後者ですが、どの仮定が破れるのかを特定するのに時間がかかりました。
4. シラードのエンジン:悪魔を分子 1 個まで痩せさせる
Section titled “4. シラードのエンジン:悪魔を分子 1 個まで痩せさせる”議論を進めた最初の人はレオ・シラードです。1929 年、彼は悪魔から余計な装飾をすべて剥ぎ取り、分子 1 個の箱に還元しました。速さを測る必要すらありません。左にいるか右にいるかが分かればよいのです。
定義 4.1(シラードのエンジン)
体積 の箱に分子が 1 個だけ入っており、箱は温度 の熱浴に接している。次の操作を 1 サイクルとする装置をシラードのエンジンという。
- 箱の中央に仕切りを差し込み、体積 の 2 室に分ける。分子はどちらか一方に閉じ込められる。
- 分子がどちらの室にいるかを観測し、その結果を 1 ビットの記憶(メモリ)に記録する。
- 記憶に従って、分子のいる室の側にピストンを連結する。
- 熱浴と熱をやりとりさせながら、ピストンをゆっくり(準静的に)押し戻し、体積を から に戻す。このとき外部に仕事が取り出される。
- 仕切りを抜き、装置を最初の状態に戻す。
flowchart TD A["1. 体積 V の箱に分子が 1 個。位置は不明"] --> B["2. 中央に仕切りを入れる(仕事はゼロ)"] B --> C["3. 左右どちらかを観測する"] C --> D["4. 結果を 1 ビットのメモリに記録する"] D --> E["5. 分子のいる側にピストンを連結する"] E --> F["6. 等温準静的に膨張。仕事 kT ln2 を取り出す"] F --> G["7. メモリを消去して初期状態に戻す"] G --> A
手順 4 で取り出せる仕事を計算します。
定理 4.2(シラードのエンジンの仕事)
定義 4.1のエンジンにおいて、手順 4 の等温準静的膨張で外部に取り出される仕事は、分子が左右どちらの室にいた場合でも
である。またこのとき、同じ量の熱 が温度 の熱浴から吸収され、熱浴のエントロピーは だけ減少する。
証明(定理 4.2)
分子は 1 個ですが、これは粒子数 の理想気体とみなせます。理想気体の状態方程式 に を代入すると
です。ここで は、分子がピストンに何度も衝突することで生じる圧力の時間平均を指します。
ピストンが体積 から まで動くとき、気体が外にする仕事は です。手順 4 では体積が から まで変化するので、
となります。分子が右室にいた場合も、膨張の始点と終点の体積は同じ と ですから、値は変わりません。
次に熱です。理想気体の内部エネルギーは温度だけで決まり、等温過程では変化しません()。熱力学第一法則 より です。熱浴は温度 を保ったままこの熱を放出したので、そのエントロピー変化は
です。
例 4.3(この仕事はどれくらいの大きさか)
K のとき
です。電子ボルトに直すと eV。空気分子 1 個の平均運動エネルギー J のおよそ半分です。
1 モルぶん、つまり ビットを処理したとすると J、だいたい 1.7 kJ になります。これは 100 W の電球を 17 秒つけるエネルギーです。悪魔が働いたところで、電力会社が倒産する心配はありません。問題は量ではなく、符号です。
定理 4.2の帰結は深刻です。1 サイクルごとに熱浴のエントロピーが ずつ減り、箱の中の分子は最初と同じ「体積 のどこかにいる」状態に戻っています。もし悪魔の側で何も起きていないなら、宇宙全体のエントロピーが 1 サイクルあたり ずつ減り続けることになります。
5. 犯人捜し:観測にコストがかかるのか
Section titled “5. 犯人捜し:観測にコストがかかるのか”長らく有力とされた説明は、観測が犯人だというものでした。1951 年、レオン・ブリルアンは次のように論じます。真っ暗な箱の中で分子を見るには、悪魔は懐中電灯を持たねばならない。光子 1 個を分子に当てて跳ね返りを見る。周囲の熱放射に紛れないためには、光子のエネルギーは より十分大きくなければならない。その光子はやがて吸収されて熱になるので、観測 1 回あたり 以上のエントロピー生成が起きる。よって帳尻は合う、と。
もっともらしい議論ですが、決定的ではありませんでした。ブリルアンが示したのは「この特定のやり方で観測するとコストがかかる」ことであって、「あらゆる観測にコストがかかる」ことではないからです。
1970 年代から 80 年代にかけて、チャールズ・ベネットはこの点を突きました。
注意 5.1(測定は原理的にはただでできる)
ベネットは、外部に何のエントロピーも生まずに測定を行う具体的な模型を構成しました。要点は、測定を可逆な操作として設計することです。
測定とは「対象の状態」と「メモリの状態」を相関させる操作です(量子力学で同じ相関を作れば、それがエンタングルメント(定義 3.2)[シュレーディンガーの猫]です)。メモリが初期状態 0 にあるとき、対象が左なら 0 のまま、右なら 1 に変える。この対応
は 1 対 1 です。入口の状態と出口の状態が 1 対 1 に対応する操作は、原理的には逆向きにも実行でき、摩擦のないゆっくりした過程として任意に小さい散逸で行えます。したがって測定は、ブリルアンが考えたような必然的コストを伴いません。
くわしくは Bennett (1982) を参照してください。
もう一つ、「そもそも知的な存在を持ち出すのがおかしい、機械仕掛けの悪魔ならどうか」という疑問もあります。これには別の答えが用意されています。
注意 5.2(ばね仕掛けの悪魔はなぜ動かないか)
マリアン・スモルコフスキーは 1912 年、ばねで押さえた跳ね上げ扉(片方向にしか開かない小窓)を考えました。分子が右から当たれば開き、左から当たれば閉じたまま。これなら知性は不要です。
しかし扉自身が温度 の環境にあります。扉が分子を止められるほど軽くばねが弱ければ、扉は自分自身の熱運動でパタパタと勝手に開いてしまいます。逆に熱運動で開かないほどばねを強くすれば、分子 1 個の衝突では開きません。選別に必要な感度と、熱雑音に負けない頑丈さが両立しないのです。
同じ構造の議論を、リチャード・ファインマンが「ラチェットと爪」の模型で詳しく展開しています(『ファインマン物理学』第 I 巻)。ラチェットが一方向にしか回らないためには爪が熱運動より強く押さえられている必要があり、そのためには爪を冷やさねばならず、冷やすとは温度差を作ることで、結局ふつうの熱機関に戻ってしまいます。
観測は無罪。機械仕掛けも駄目。では、シラードのエンジンのどこに借金が隠れているのでしょうか。答えは、これまで誰も勘定に入れていなかった手順にありました。
6. ランダウアーの原理:忘れることの代償
Section titled “6. ランダウアーの原理:忘れることの代償”定義 4.1をもう一度読んでください。手順 5 で「装置を最初の状態に戻す」と書きましたが、悪魔のメモリは元に戻っていません。1 サイクル前は「まだ何も書かれていない」状態だったのに、いまは左か右かが書き込まれています。装置が本当に元の状態に戻るには、メモリを消さなければなりません。
ロルフ・ランダウアーが 1961 年に指摘したのは、この消去こそが物理的な代償を要求する、ということでした。
定義 6.1(論理的非可逆性)
ある操作が論理的に可逆であるとは、操作後の状態から操作前の状態が一意に決まることをいう。そうでないとき、その操作は論理的に非可逆であるという。
1 ビットの消去、すなわち状態 0 と状態 1 のどちらであっても状態 0 にする操作
は、出力 0 から入力を復元できないので論理的に非可逆である。
なぜ論理的な性質が、熱という物理的なものを呼び寄せるのでしょうか。鍵は次の事実です。
補題 6.2(リウヴィルの定理(位相空間体積の保存))
ハミルトン力学に従って時間発展する系において、位相空間(すべての粒子の位置と運動量が張る空間。定義 2.1[ラプラスの悪魔と決定論])の領域の体積は、時間発展によって変化しない。領域の形は複雑に引き伸ばされても、その体積は保たれる。
注意 6.3(この補題の証明について)
補題 6.2は解析力学の標準的な結果で、正準方程式から導かれる位相空間の流れが非圧縮的(速度場の発散がゼロ)であることに帰着します。証明はランダウ=リフシッツ『力学』や、統計力学の教科書の冒頭部にあります。ここでは事実として用います。
定理 6.4(ランダウアーの原理)
温度 の環境と接する系の中で、等確率で 0 または 1 の値をとる 1 ビットのメモリを、初期値によらず一定の状態にする(消去する)操作を行うとする。このとき環境に放出される熱 は
を満たす。等号は、操作を無限にゆっくり準静的に行った極限で成り立つ。
証明(定理 6.4)
消去の前後で、メモリの状態が占める領域を比べます。
消去前、メモリは 0 と 1 のどちらでもありえます。定義 2.2により、この不確かさに対応するエントロピーは、2 つの状態が等確率なので
です。消去後は状態が 0 と確定しているので 。したがってメモリのエントロピーは だけ減少しました。
ここで補題 6.2が効きます。メモリと環境を合わせた全体はハミルトン力学に従うので、全体の位相空間体積は減らせません。メモリ側で領域が半分に潰れたのなら、その体積は消えたのではなく、環境側の領域が広がることで押し出されたはずです。言い換えると、メモリのエントロピー減少は、環境のエントロピー増加によって少なくとも相殺されなければなりません。
環境は温度 の熱浴ですから、そこに熱 が流れ込んだときのエントロピー増加は です。よって
を得ます。
等号が実際に達成できることは、具体的な消去手続きで確かめられます。1 ビットのメモリを、体積 の箱に仕切りを入れて分子 1 個を左右どちらかに閉じ込めたもので表しましょう(左が 0、右が 1)。消去とは「どちらにいても左に集める」ことです。まず仕切りを抜きます。分子は体積 を自由に動き回り、この時点で左右の情報は失われます。次にピストンで体積を まで等温準静的に圧縮すれば、分子は必ず左室にいます。この圧縮に要する仕事は、定理 4.2の計算を逆向きにたどって
であり、等温過程なので同量の熱 が熱浴に捨てられます。準静的に行えば下限がちょうど達成されます。
さて、決算です。
系 6.5(悪魔の帳簿は合う)
証明(系 6.5)
悪魔は詐欺師ではなく、帳簿を 1 ページ見落としていただけでした。稼いだぶんは、次の仕事にかかる前に必ず吐き出さねばなりません。
注意 6.6(この解決は循環論法ではないか)
鋭い読者はここで引っかかるはずです。定理 6.4の証明では第二法則的な議論(エントロピーは減らない)を使い、その結果を使って第二法則を守った。これは循環ではないか、と。
実際、ジョン・アーマンとジョン・ノートンはこの点を厳しく批判しました。彼らの整理によれば、ランダウアーの原理を第二法則から導いてから悪魔を退治するのは論点先取であり、逆に統計力学から独立に導けるなら、悪魔の議論そのものが不要になる、というジレンマがあります。
これに対する現在の標準的な立場は、補題 6.2を出発点とする証明のように、ランダウアーの原理を力学と統計力学から独立に導くことです。近年は、有限時間の測定とフィードバックを含む過程に対して、第二法則を情報量ぶんだけ拡張した「ゆらぎの定理」の形の等式が確立しており、悪魔を含む系の収支は不等式ではなく等式として書けるようになっています。哲学的な論争は完全には終わっていませんが、物理としての勘定は閉じている、というのが実情です。
7. 実験室の悪魔と、あなたのパソコン
Section titled “7. 実験室の悪魔と、あなたのパソコン”これらは思考実験にとどまりません。21 世紀に入って、どちらも実験室で確かめられました。
例 7.1(ランダウアー限界の測定(2012 年))
アントワーヌ・ベリュらのグループは、水中に浮かべた直径 2 マイクロメートルほどのコロイド粒子を、レーザーで作った「2 つの谷を持つポテンシャル」に閉じ込めました。粒子が左の谷にいれば 0、右の谷にいれば 1。これが 1 ビットのメモリです。
谷の壁を下げ、片側に傾けてまた壁を上げる、という操作で「どちらにいた粒子も左の谷に集める」消去を実行し、そのあいだに粒子が水に渡した熱を、粒子の位置と速度の記録から算出しました。操作をゆっくり行うほど散逸する熱は減っていき、極限で に漸近して、それを下回ることはありませんでした。定理 6.4の等号が達成されうること、そして下限が破れないことの、直接の確認です(Bérut et al., Nature 483 (2012))。
その 2 年前には鳥谷部祥一らが逆向きの実験、すなわち観測とフィードバックによってブラウン運動する粒子を坂の上に登らせ、情報からエネルギーを取り出すことに成功しています(Toyabe et al., Nature Physics 6 (2010))。悪魔は実在します。ただし、収支を守る悪魔として。
例 7.2(1 ギガバイトを消すと部屋は暖まるか)
1 GB ビットを室温で完全に消去したときに、原理的に避けられない発熱は
です。0.00000000002 ジュール。水 1 g を 1 度上げるのに 4.2 J 要ることを思えば、まったく無視できます。
一方、現在の半導体素子が 1 ビットのスイッチングに使うエネルギーは J 程度と見積もられています。ランダウアー限界のおよそ数千倍です。つまり今日のコンピュータの発熱は、情報の消去という原理的な理由ではなく、電荷を配線に充放電するという工学的な理由でほぼ全部説明がつきます(微細化がぶつかっているもう一つの壁、ゲート絶縁膜のトンネル漏れについては例 3.9[日常の中の物理])。
とはいえ、素子 1 個あたりのエネルギーは歴史的に一貫して下がり続けてきました。もしこの傾向が続くなら、いつかは工学的な無駄を削り尽くし、ランダウアー限界という物理の壁に突き当たります。そのとき設計者に残された道は、消去しない計算、すなわち可逆計算です。マクスウェルが手紙に書いたいたずらは、いまや半導体設計の遠い将来の設計図に顔を出しています。
K で 1 ビットを消去するときに必要な最小の熱量を求め、それを「電子 1 個を 1 V の電位差で動かすエネルギー」( J)と比べてください。何倍の差がありますか。
解答
定理 6.4より最小の熱量は
です。1 eV との比は
すなわち約 です。逆に言えば 1 eV はランダウアー限界のおよそ 56 倍。電子回路が扱う典型的なエネルギースケール(数百 mV から数 V)は、すでにランダウアー限界より 1〜2 桁大きいことが分かります。実際の素子(1 ビットあたり J 程度、ランダウアー限界の数千倍)がそこからさらに 2 桁ほど無駄をしているのは、1 回のスイッチングで多数の電子を動かすためです。
演習 8.2標準
シラードのエンジンで、仕切りを中央ではなく、左室と右室の体積比が になる位置に入れたとします。分子が左室にいる確率は 、右室にいる確率は です。1 サイクルあたりに取り出せる仕事の期待値を求め、定理 4.2の値と比べてください。
悪魔が ビットの空のメモリを持ち、消去をいっさい行わずにシラードのエンジンを回すとします。(1) 悪魔が取り出せる仕事の合計はいくらですか。(2) この場合、第二法則は破れているといえますか。(3) 悪魔が無限に働き続けるには何が必要ですか。
解答
(1) メモリが空である限り、1 サイクルごとに新しい 1 ビットを未使用の領域に書き込めるので、消去は不要です。定理 4.2より 1 サイクルで が得られ、 サイクル回せるので合計は
です。 を大きく取れば、いくらでも大きな仕事を取り出せます。
(2) 破れていません。第二法則(公理 2.1)が禁じているのは「装置が元の状態に戻る循環過程」で熱をすべて仕事に変えることです。ここでは熱浴のエントロピーが 減った代わりに、悪魔のメモリのエントロピーが同じだけ増えています。空の ビットは 1 通りの状態しか取りませんが、書き込み後は 通りありうるので、定義 2.2より
です。合計は増減ゼロで、収支は合っています。装置が元に戻っていない以上、これは第二法則への反例ではありません。
(3) 消去です。 サイクルを終えた悪魔のメモリは満杯で、次のサイクルに入るには初期化しなければなりません。定理 6.4より ビットの消去には 以上の熱を環境に捨てる必要があり、それには同じだけの仕事の投入が要ります。(1) で稼いだぶんはここで残らず返済されます。
つまり有限のメモリを持つ悪魔は、一時的にしか第二法則を破れません。破っているように見える期間の長さは、メモリの容量で決まります。これは第二法則の例外ではなく、「元の状態に戻る」という条件がいかに本質的かを示す好例です。
- J. C. Maxwell, Theory of Heat, Longmans, Green, and Co., 1871 — 第 22 章に、悪魔の原型となる記述があります。
- L. Szilard, “Über die Entropieverminderung in einem thermodynamischen System bei Eingriffen intelligenter Wesen”, Zeitschrift für Physik 53 (1929), 840–856 — シラードのエンジンの原論文。
- R. Landauer, “Irreversibility and heat generation in the computing process”, IBM Journal of Research and Development 5 (1961), 183–191 — ランダウアーの原理の原論文。
- C. H. Bennett, “The thermodynamics of computation — a review”, International Journal of Theoretical Physics 21 (1982), 905–940 — 測定が無コストでありうること、消去こそが代償であることを整理した総説。
- H. S. Leff and A. F. Rex (eds.), Maxwell’s Demon 2: Entropy, Classical and Quantum Information, Computing, Institute of Physics Publishing, 2003 — 主要論文を集めたアンソロジーで、歴史的経緯の解説も収録。
- A. Bérut et al., “Experimental verification of Landauer’s principle linking information and thermodynamics”, Nature 483 (2012), 187–189 — 消去の熱の直接測定。
- R. P. Feynman, R. B. Leighton, M. Sands, The Feynman Lectures on Physics, Vol. I, Addison-Wesley, 1963 — 第 46 章「ラチェットと爪」。機械仕掛けの悪魔がなぜ動かないか。
- J. Earman and J. D. Norton, “Exorcist XIV: The Wrath of Maxwell’s Demon”, Studies in History and Philosophy of Modern Physics 29 (1998) および 30 (1999) — 情報理論的解決への批判的検討。
Appendix: 二つのエントロピーは、なぜ同じ単位で測れるのか
Section titled “Appendix: 二つのエントロピーは、なぜ同じ単位で測れるのか”熱のエントロピーと情報のエントロピー。 この記事では、熱浴のエントロピー と、メモリの不確かさのエントロピー を、当たり前のように足し引きしました。しかし片方は蒸気機関の解析から生まれた量で、もう片方は通信路の容量を測るためにクロード・シャノンが 1948 年に導入した量です。出自がまったく違うものを、なぜ同じ帳簿に載せてよいのでしょうか。
形が同じであること。 シャノンは、確率 で記号 が現れる情報源の不確かさを
で定義しました。定義 2.2のボルツマンのエントロピー と見比べると、違いは対数の底(2 か か)と、前に付く定数 だけです。 を使えば
という換算式が得られます。1 ビットの情報は J/K のエントロピーに対応する、というわけです。定理 6.4の は、この換算式に温度を掛けただけのものです。
それは単なる数式の類似ではないのか。 長いあいだ、この一致は形式的なアナロジーにすぎないと考える人もいました。しかしシラードのエンジンが示すのは、両者が同じ通貨で交換できるということです。定理 4.2では 1 ビットの情報が の仕事に化け、定理 6.4ではその逆の交換が起きます。為替レートが定数 で固定されており、両替に手数料以上の損はあっても得はない。この交換可能性が実験で確かめられたこと(例 7.1)が、アナロジー説を退けました。
残る違い。 ただし両者は完全に同じものではありません。熱力学のエントロピーは、系のミクロ状態についての「どの記述の粗さで見るか」を暗黙に固定して定義されます。情報のエントロピーは、誰が何を知っているかという相対的な量です。この差は、悪魔の問題では「悪魔が何を知っているか」がエントロピーの値を変える、という形で表面化しました。マクスウェルの悪魔が物理学に残した最大の贈り物は、温度差でも永久機関でもなく、知識という主観的に見える概念が、熱という客観的な量と地続きであるという発見だったのかもしれません。
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