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ラプラスの悪魔と決定論:未来はすでに決まっているのか

対象読者: 中学数学と高校物理の運動方程式(力・加速度・速度)を学んだ人。微分や微分方程式は簡単に説明するので、事前には仮定しません。

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もし宇宙のすべての物体の位置と速さが分かっていて、それらが従う法則も分かっているなら、明日どころか百年先のことも計算で言い当てられるのでしょうか。この記事は、この素朴な疑問を数学の問題として立て直し、答えがどこまで「はい」で、どこから「いいえ」になるのかを、数値例を交えて確かめていきます。読み終えると、「決まっていること」と「予測できること」が別のことだと説明できるようになります。

  • ラプラスの悪魔とは、「宇宙のすべての粒子の位置と速度、そしてすべての力を知っている知性がいれば、その知性にとって未来も過去も現在と同じようにはっきり見えるはずだ」という思考実験です。1814 年にラプラスが書きました。
  • この主張は、詩的な比喩ではなくきちんと数学の命題に翻訳できます。翻訳すると「運動方程式の初期値問題の解は一意である」という定理になり、ある条件のもとでは実際に正しいことが証明できます。
  • ところがその条件を少し外すだけで一意性は壊れます。壊れる例をひとつ最後まで計算して見せます。
  • 20 世紀に入って悪魔は 2 度撃たれました。1 発目はカオス(初期値鋭敏性)です。悪魔が完璧でなく「ほんの少しだけ不正確」だと、その誤差が指数関数的に育ち、有限時間で予測が無意味になります。ロジスティック写像では、角度変数に直すと誤差がぴったり毎ステップ 2 倍になり、リアプノフ指数が ln⁡2\ln 2 になることを証明します。
  • 2 発目は量子力学です。不確定性関係により、「位置と速度をどちらも正確に知る」という悪魔の前提条件そのものが成り立ちません。
  • それでも決定論は完全には死んでいません。量子力学の波動関数の時間発展は決定論的だからです。死んだのは「決定論」ではなく「予測可能性」のほうだ、というのがこの記事の結論です。

1. 動機:なぜ 19 世紀の人々は未来を計算できると信じたのか

Section titled “1. 動機:なぜ 19 世紀の人々は未来を計算できると信じたのか”

いまの私たちから見ると「宇宙のすべてを計算で言い当てられる」という発想はいかにも大げさに聞こえます。しかし 18 世紀から 19 世紀初頭の科学者にとって、これはむしろ控えめな言明でした。理由は簡単で、当時のニュートン力学は連戦連勝だったからです。

エドモンド・ハレーは、1682 年に現れた彗星が過去の記録に残る彗星と同一だと考え、次の回帰を予言しました。ハレー自身は結果を見ずに世を去りましたが、アレクシス・クレローらが木星と土星の引力による遅れを手計算で見積もり、回帰は 1758 年末から 1759 年春の間だろうと計算しました。彗星は 1758 年のクリスマスに発見されました。「空のどこに、いつ、何が現れるか」を紙とペンで当てたのです。

さらに劇的なのが海王星です。天王星の観測位置が計算とわずかにずれる。このずれを「未知の惑星の引力のせいだ」と仮定して、ユルバン・ルヴェリエはその未知の惑星がいるべき方向を計算しました。1846 年、ヨハン・ガレがベルリン天文台でその方向に望遠鏡を向け、予測位置から約 1 度以内のところに新しい惑星を見つけました。誰も見たことのない天体を、方程式が先に見つけたわけです。

こういう成功が続けば、次の考えに至るのは自然です。

天王星のふらつきが方程式で説明できるなら、机の上を転がるビー玉も、風に舞う木の葉も、私の脳の中の原子も、同じ方程式に従っているはずだ。ならば原理的には全部計算できるのではないか。

これを最も鮮やかな言葉にしたのが、ピエール=シモン・ラプラス『確率の哲学的試論』(1814 年)の一節です。彼は「ある知性が、ある瞬間における自然を動かすすべての力と、自然を構成するすべての存在の配置を知っており、かつそれらのデータを解析するのに十分な能力を持つならば、その知性にとって不確実なものは何もなく、未来も過去と同様に眼前にあるだろう」という趣旨のことを書きました。この架空の知性が、後にラプラスの悪魔と呼ばれるようになります。

面白いのは、ラプラスがこの一節を書いた本が確率論の本だという点です。彼の言いたかったのはこうです。「宇宙は本当は完全に決まっている。私たちが確率を使うのは、宇宙が曖昧だからではなく、私たちが無知だからだ」。つまり確率とは、無知の量を測る道具である、と。この立場は現在でもベイズ統計の哲学的な出発点として生きています。

この記事では、この主張を数学の命題に書き直し、どこまでが正しく、どこから崩れるのかを順に見ていきます。


2. 準備:状態・位相空間・運動方程式

Section titled “2. 準備:状態・位相空間・運動方程式”

議論を曖昧にしないために、まず「未来が決まっている」という言い方を数学の言葉に置き換えます。

定義 2.1(状態と位相空間)↗

NN 個の質点からなる古典力学系を考えます。時刻 tt における第 ii 質点の位置を ri(t)∈R3\boldsymbol{r}_i(t) \in \mathbb{R}^3、運動量を pi(t)∈R3\boldsymbol{p}_i(t) \in \mathbb{R}^3 とし、これらをすべて並べた 6N6N 次元のベクトル

x(t)=(r1(t),…,rN(t), p1(t),…,pN(t))∈R6N\boldsymbol{x}(t) = \bigl(\boldsymbol{r}_1(t), \ldots, \boldsymbol{r}_N(t),\ \boldsymbol{p}_1(t), \ldots, \boldsymbol{p}_N(t)\bigr) \in \mathbb{R}^{6N}

を、時刻 tt における系の状態と呼びます。状態が動く空間 R6N\mathbb{R}^{6N} を位相空間と呼びます。

6N6N 次元と聞くと大げさですが、NN 個の粒子それぞれに「位置の 3 成分」と「運動量の 3 成分」があるので、全部で 6N6N 個の数を並べたというだけです。宇宙全体の様子が、この空間の 1 点で表されます。時間がたつと、この点が空間の中を動いていきます。

ここで「位置だけ」ではなく「位置と運動量」を組にするのが要点です。位置だけでは未来は決まりません。同じ場所にあるボールでも、右に飛んでいるか左に飛んでいるかで次の瞬間は違います。ニュートンの運動方程式は加速度、すなわち時間について 2 階の微分を含むので、初期条件として位置と速度(運動量)の両方が必要になるのです。ラプラスが「配置」と「力」の両方を挙げたのは、まさにこの事情に対応しています。

次の定義の F\boldsymbol{F} は、位相空間の各点に「その点にいる状態が次の瞬間どちらへ、どれだけの速さで動くか」を矢印として割り当てるもの(ベクトル場)です。矢印が決まっていれば、点はその矢印に沿って動いていきます。

定義 2.2(決定論的な系)↗

位相空間上のベクトル場 F:Rn→Rn\boldsymbol{F} : \mathbb{R}^{n} \to \mathbb{R}^{n} が与えられ、系の時間発展が 1 階の常微分方程式

dxdt=F(x)\frac{d\boldsymbol{x}}{dt} = \boldsymbol{F}(\boldsymbol{x})

で書けるとします。任意の初期状態 x(0)=x0\boldsymbol{x}(0) = \boldsymbol{x}_0 に対してこの方程式の解がただ一つ定まるとき、この系は決定論的であるといいます。

ニュートンの運動方程式 mir¨i=Fi(r1,…,rN)m_i \ddot{\boldsymbol{r}}_i = \boldsymbol{F}_i(\boldsymbol{r}_1,\ldots,\boldsymbol{r}_N) は、pi=mir˙i\boldsymbol{p}_i = m_i \dot{\boldsymbol{r}}_i とおけば

r˙i=pimi,p˙i=Fi(r1,…,rN)\dot{\boldsymbol{r}}_i = \frac{\boldsymbol{p}_i}{m_i}, \qquad \dot{\boldsymbol{p}}_i = \boldsymbol{F}_i(\boldsymbol{r}_1,\ldots,\boldsymbol{r}_N)

という 1 階の連立方程式になり、定義 2.2 の形にちょうど収まります。2 階の方程式を 1 階に落とす代わりに変数の個数を倍にした、というだけの操作です。


3. ラプラスの悪魔を数学の言葉に翻訳する

Section titled “3. ラプラスの悪魔を数学の言葉に翻訳する”

定義 3.1(ラプラスの悪魔)↗

次の 3 つの能力をもつ仮想的な存在をラプラスの悪魔と呼びます。

  1. ある時刻 t0t_0 における宇宙の状態 x(t0)\boldsymbol{x}(t_0) を、誤差ゼロで知っている。
  2. 支配方程式 F\boldsymbol{F}(すべての力の法則)を知っている。
  3. 任意の tt に対して初期値問題の解 x(t)\boldsymbol{x}(t) を、有限時間で計算しきる能力をもつ。

この 3 条件が揃えば未来が確定するのかどうか。それは純粋に数学の問題であり、次の定理が答えます。

次の定理のねらいは、「同じ状態から出発した 2 つの宇宙が、途中で別々の未来に分かれることはない」ことを示すことです。条件に出てくるリプシッツ条件は、F\boldsymbol{F} の値が、入力の違いに比べて極端には変わらない(入力の差の定数倍以内に収まる)という意味です。矢印が急に暴れないことを保証する条件だと考えてください。また C1C^1 級とは、グラフがなめらかで、微分した結果も連続になっていることです。

定理 3.2(初期値問題の解の一意性)✓

D⊂RnD \subset \mathbb{R}^n を開集合、F:D→Rn\boldsymbol{F} : D \to \mathbb{R}^n を連続写像とし、ある定数 L>0L > 0 が存在して

∥F(u)−F(v)∥≤L∥u−v∥(∀u,v∈D)\lVert \boldsymbol{F}(\boldsymbol{u}) - \boldsymbol{F}(\boldsymbol{v}) \rVert \le L \lVert \boldsymbol{u} - \boldsymbol{v} \rVert \qquad (\forall \boldsymbol{u}, \boldsymbol{v} \in D)

が成り立つとします(この条件をリプシッツ条件といいます)。このとき、区間 [0,T][0, T] 上の 2 つの C1C^1 級の解 x(t),y(t)\boldsymbol{x}(t), \boldsymbol{y}(t) が、いずれも DD に値をとり、x˙=F(x)\dot{\boldsymbol{x}} = \boldsymbol{F}(\boldsymbol{x})、y˙=F(y)\dot{\boldsymbol{y}} = \boldsymbol{F}(\boldsymbol{y})、かつ x(0)=y(0)\boldsymbol{x}(0) = \boldsymbol{y}(0) を満たすならば、[0,T][0,T] 全体で x(t)=y(t)\boldsymbol{x}(t) = \boldsymbol{y}(t) です。

証明の方針は次のとおりです。2 つの解の差の大きさ u(t)u(t) が、リプシッツ条件のおかげで「自分自身の積分の定数倍以下」に抑えられることを示し、そこから u(t)u(t) が最初の値 00 から一度も育たないことを導きます。途中の指数関数 e−Lte^{-Lt} は、この不等式から「育たない」ことを取り出すための道具です。

証明(定理 3.2)

微分方程式の両辺を 00 から tt まで積分すると、微積分学の基本定理により

x(t)=x(0)+∫0tF(x(s)) ds,y(t)=y(0)+∫0tF(y(s)) ds\boldsymbol{x}(t) = \boldsymbol{x}(0) + \int_0^t \boldsymbol{F}(\boldsymbol{x}(s))\, ds, \qquad \boldsymbol{y}(t) = \boldsymbol{y}(0) + \int_0^t \boldsymbol{F}(\boldsymbol{y}(s))\, ds

が得られます。仮定 x(0)=y(0)\boldsymbol{x}(0) = \boldsymbol{y}(0) を使って辺々引くと初期値の項が消え、

x(t)−y(t)=∫0t(F(x(s))−F(y(s)))ds.\boldsymbol{x}(t) - \boldsymbol{y}(t) = \int_0^t \bigl( \boldsymbol{F}(\boldsymbol{x}(s)) - \boldsymbol{F}(\boldsymbol{y}(s)) \bigr) ds .

ここで u(t):=∥x(t)−y(t)∥≥0u(t) := \lVert \boldsymbol{x}(t) - \boldsymbol{y}(t) \rVert \ge 0 とおきます。積分のノルムはノルムの積分以下(三角不等式の積分版)なので、さらにリプシッツ条件を使って

u(t)≤∫0t∥F(x(s))−F(y(s))∥ ds≤L∫0tu(s) dsu(t) \le \int_0^t \lVert \boldsymbol{F}(\boldsymbol{x}(s)) - \boldsymbol{F}(\boldsymbol{y}(s)) \rVert\, ds \le L \int_0^t u(s)\, ds

を得ます。そこで U(t):=∫0tu(s) dsU(t) := \int_0^t u(s)\, ds とおくと、uu は連続なので UU は C1C^1 級で U′(t)=u(t)U'(t) = u(t) です。いま示した不等式は U′(t)≤L U(t)U'(t) \le L\,U(t) と書けます。両辺に正の数 e−Lte^{-Lt} を掛けて移項すると

ddt(e−LtU(t))=e−Lt(U′(t)−L U(t))≤0\frac{d}{dt}\Bigl( e^{-Lt} U(t) \Bigr) = e^{-Lt}\bigl( U'(t) - L\,U(t) \bigr) \le 0

となり、関数 e−LtU(t)e^{-Lt}U(t) は [0,T][0,T] 上で単調非増加です。U(0)=0U(0) = 0 ですから、すべての t∈[0,T]t \in [0,T] で e−LtU(t)≤0e^{-Lt}U(t) \le 0、したがって U(t)≤0U(t) \le 0 です。一方 u≥0u \ge 0 より U(t)≥0U(t) \ge 0 なので、U(t)=0U(t) = 0 が従います。すると u(t)=U′(t)=0u(t) = U'(t) = 0、すなわち x(t)=y(t)\boldsymbol{x}(t) = \boldsymbol{y}(t) が [0,T][0,T] 全体で成り立ちます。

つまり、リプシッツ条件が成り立つ限り、ラプラスの悪魔の主張は数学的に正しいのです。同じ初期状態から出発した宇宙が 2 通りに分岐することは、この条件下ではあり得ません。この意味で、ラプラスの主張は単なる思弁ではなく定理でした。

では逆に、この結論を壊すには何を捨てればよいでしょうか。証明でリプシッツ条件を使ったのはただ 1 か所です。そこを外してみます。

例 3.3(一意性が壊れる方程式)

1 次元の方程式

dxdt=3 x2/3,x(0)=0\frac{dx}{dt} = 3\,x^{2/3}, \qquad x(0) = 0

を考えます。F(x)=3x2/3F(x) = 3x^{2/3} は連続ですが、x=0x = 0 の近くでリプシッツ条件を満たしません。実際 v=0v = 0、u=h>0u = h > 0 とすると

∣F(h)−F(0)∣∣h−0∣=3h2/3h=3h1/3→h→+0∞\frac{|F(h) - F(0)|}{|h - 0|} = \frac{3h^{2/3}}{h} = \frac{3}{h^{1/3}} \xrightarrow{h \to +0} \infty

なので、どんな定数 LL を持ってきても比が LL を超える hh が存在します。

このとき解は一つに決まりません。まず x(t)≡0x(t) \equiv 0 は明らかに解です(左辺 =0= 0、右辺 =3⋅0=0= 3\cdot 0 = 0)。ところが、任意の定数 c≥0c \ge 0 に対して

xc(t)={0(0≤t≤c)(t−c)3(t>c)x_c(t) = \begin{cases} 0 & (0 \le t \le c) \\ (t - c)^3 & (t > c) \end{cases}

も解になります。t>ct > c での確認をします。左辺は ddt(t−c)3=3(t−c)2\dfrac{d}{dt}(t-c)^3 = 3(t-c)^2、右辺は 3((t−c)3)2/3=3(t−c)23\bigl((t-c)^3\bigr)^{2/3} = 3(t-c)^2 で一致します。t=ct = c での接続も、両側から微分係数がともに 00 になるので C1C^1 級です。

cc は 00 以上の任意の実数ですから、初期値 x(0)=0x(0)=0 に対する解は無限個あります。物理的に読み替えれば、原点で静止していた粒子が、いつまで静止しているかを方程式が決めてくれない。ある瞬間に「勝手に」動き出す解が許されてしまうのです。

txc = 0c = 1c = 2x = 0(ずっと静止)
x(0)=0 から出発する解。ずっと静止する解(横軸上の破線)と、時刻 c=0, 1, 2 から立ち上がる解 (t-c)^3(縦軸は縮尺を省略しています)

注意 3.4

例 3.3 は数学の作り話に見えますが、科学哲学者ジョン・ノートンが提案した「ノートンのドーム」は、これとほぼ同じ構造をもつ力学系を、頂点の形を工夫したドームの上を滑る質点として実現してみせたものです。ドームの頂点に置いた質点が、外から何も触れていないのに任意の時刻に自発的に滑り出す解が、ニュートン力学の枠内で許されてしまう。もっとも現実の物質でその形状のドームを作れるか、質点近似が妥当か、といった点には議論があり、「古典力学は決定論的である」という常識を壊す反例として広く受け入れられているわけではありません。ここで確実に言えるのは、決定論は物理の前提ではなく、方程式の滑らかさから導かれる帰結だということです。


4. 第一の反撃:カオス — 決定論的なのに予測できない

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定理 3.2 は「初期状態が完全に同じなら未来も同じ」と言っています。悪魔の条件 1 が「誤差ゼロ」だったのはそのためです。では、悪魔がほんの少し不正確だったらどうなるでしょうか。19 世紀の常識では「少しずれた入力からは少しずれた出力が出る」でした。しかしこれは、一般には成り立ちません。

初期の差(きわめて小さい)時間…指数関数的に拡大…軌道 A軌道 B
初期値鋭敏性。左端でほとんど重なっていた 2 本の軌道が、時間とともに指数関数的に離れていく

定義 4.1(リアプノフ指数)↗

写像 ff による離散時間の力学系 xn+1=f(xn)x_{n+1} = f(x_n) を考えます。初期値 x0x_0 とその近くの x0+δ0x_0 + \delta_0 から出発した 2 つの軌道の nn ステップ後の差を δn\delta_n とするとき、極限

λ=lim⁡n→∞lim⁡δ0→01nln⁡∣δnδ0∣\lambda = \lim_{n \to \infty} \lim_{\delta_0 \to 0} \frac{1}{n} \ln \left| \frac{\delta_n}{\delta_0} \right|

が存在するとき、これをリアプノフ指数と呼びます。λ>0\lambda > 0 のとき、差はおおよそ δn≈δ0eλn\delta_n \approx \delta_0 e^{\lambda n} と指数関数的に成長します。この状態を初期値鋭敏性があるといい、有界な領域に閉じ込められた運動が初期値鋭敏性をもつとき、その運動をカオスと呼びます。

上の定義の式は、2 つの軌道の差が 1 ステップあたり平均で何倍になるかを、対数で測ったものです。たとえば毎ステップ 2 倍になるなら ln⁡2\ln 2 になります。

抽象的な話に見えるので、リアプノフ指数を厳密に計算できる例を一つ、最後までやってみます。次の命題では、変数を角度に取り替えると、誤差の増え方が「毎回ちょうど 2 倍」というきれいな形になることを使います。

命題 4.2(ロジスティック写像の厳密解とリアプノフ指数)✓

区間 [0,1][0,1] 上の写像 f(x)=4x(1−x)f(x) = 4x(1-x) を考えます。x0∈[0,1]x_0 \in [0,1] に対し θ0∈[0,π/2]\theta_0 \in [0, \pi/2] を x0=sin⁡2θ0x_0 = \sin^2 \theta_0 で定めると、xn+1=f(xn)x_{n+1} = f(x_n) で定まる数列は

xn=sin⁡2(2nθ0)x_n = \sin^2\bigl(2^n \theta_0\bigr)

と表されます。さらに、θ0/π\theta_0/\pi が無理数であるようなほとんどすべての x0x_0 に対し、この系のリアプノフ指数は λ=ln⁡2\lambda = \ln 2 です。

証明(命題 4.2)

まず表示式を数学的帰納法で示します。n=0n = 0 のときは x0=sin⁡2θ0x_0 = \sin^2\theta_0 で定義そのものです。xn=sin⁡2(2nθ0)x_n = \sin^2(2^n\theta_0) を仮定し、θn:=2nθ0\theta_n := 2^n \theta_0 と書きます。1−sin⁡2θn=cos⁡2θn1 - \sin^2\theta_n = \cos^2\theta_n に注意すると

xn+1=4xn(1−xn)=4sin⁡2θncos⁡2θn=(2sin⁡θncos⁡θn)2=sin⁡2(2θn)=sin⁡2(2n+1θ0)x_{n+1} = 4 x_n (1 - x_n) = 4 \sin^2\theta_n \cos^2\theta_n = \bigl(2\sin\theta_n\cos\theta_n\bigr)^2 = \sin^2(2\theta_n) = \sin^2\bigl(2^{n+1}\theta_0\bigr)

となり、2 倍角の公式 sin⁡2θ=2sin⁡θcos⁡θ\sin 2\theta = 2\sin\theta\cos\theta だけで主張が従います。

次に誤差の成長を見ます。初期値を θ0\theta_0 から θ0+ϵ\theta_0 + \epsilon にずらすと、nn ステップ後の角度は 2nθ02^n\theta_0 から 2n(θ0+ϵ)=2nθ0+2nϵ2^n(\theta_0 + \epsilon) = 2^n\theta_0 + 2^n\epsilon にずれます。つまり角度の誤差はぴったり毎回 2 倍になります。x=sin⁡2θx = \sin^2\theta の微分は dxdθ=2sin⁡θcos⁡θ=sin⁡2θ\dfrac{dx}{d\theta} = 2\sin\theta\cos\theta = \sin 2\theta ですから、xx の誤差は

δn≈∣sin⁡(2θn)∣⋅2nϵ\delta_n \approx \bigl| \sin(2\theta_n) \bigr| \cdot 2^n \epsilon

です。δ0≈∣sin⁡(2θ0)∣ ϵ\delta_0 \approx |\sin(2\theta_0)|\,\epsilon なので

1nln⁡∣δnδ0∣=1n(nln⁡2+ln⁡∣sin⁡2θnsin⁡2θ0∣)=ln⁡2+1nln⁡∣sin⁡2θnsin⁡2θ0∣\frac{1}{n}\ln\left|\frac{\delta_n}{\delta_0}\right| = \frac{1}{n}\left( n \ln 2 + \ln\left|\frac{\sin 2\theta_n}{\sin 2\theta_0}\right| \right) = \ln 2 + \frac{1}{n}\ln\left|\frac{\sin 2\theta_n}{\sin 2\theta_0}\right|

となります。第 2 項の ln⁡∣sin⁡2θn/sin⁡2θ0∣\ln|\sin 2\theta_n / \sin 2\theta_0| は nn に依存して振動しますが、θ0/π\theta_0/\pi が無理数のとき 2nθ02^n\theta_0 が sin⁡\sin の零点に近づきすぎることは(測度ゼロの例外を除いて)起こらず、この項は nn で割ると 00 に収束します。したがって λ=ln⁡2\lambda = \ln 2 です。

なお、命題の「ほとんどすべての x0x_0」とは、例外になる x0x_0 をすべて集めても区間 [0,1][0,1] の中での長さ(測度)が 00 になる、という意味です。例外はあっても、でたらめに選んだ初期値がそこに当たることはまずありません。

λ=ln⁡2≈0.693\lambda = \ln 2 \approx 0.693 という値は、「毎ステップ、初期誤差の情報が 2 進法で 1 桁ずつ失われる」ことを意味します。これを具体的な数値で味わってみます。

例 4.3(16 桁の精度は 54 ステップで消える)

コンピュータの倍精度浮動小数点数は、およそ 16 桁(δ0≈10−16\delta_0 \approx 10^{-16})の精度をもちます。命題 4.2 より誤差は毎ステップ 2 倍なので、nn ステップ後の誤差は δn≈2n×10−16\delta_n \approx 2^n \times 10^{-16} です。これが 11(つまり区間 [0,1][0,1] の全体と同じ大きさ、すなわち「何もわからない」状態)に達するのは

2n×10−16≥1  ⟺  n≥16ln⁡10ln⁡2=16×2.30260.6931=53.22^n \times 10^{-16} \ge 1 \iff n \ge \frac{16 \ln 10}{\ln 2} = \frac{16 \times 2.3026}{0.6931} = 53.2

より n=54n = 54 ステップ目です。実際、x0=0.4x_0 = 0.4 と x0=0.4+10−16x_0 = 0.4 + 10^{-16} から始めた 2 つの計算は、最初の 40 ステップほどは小数点以下数桁まで一致して見えますが、54 ステップを過ぎると完全に無関係な数列になります。

ここで大事なのは、これが計算機の欠陥ではないことです。精度を 32 桁に倍増しても、稼げるのはたった 53 ステップ、つまり 2 倍にしかなりません。予測可能な時間は精度の対数でしか伸びないのです。

下の動画は、x0=0.4x_0 = 0.4 と x0=0.4+10−10x_0 = 0.4 + 10^{-10} から始めた 2 本の軌道を高精度で計算したものです。上段の 2 本が最初は重なっているのに、下段の差(対数軸)が傾き ln⁡2\ln 2 の直線に沿って育ち、約 33 ステップで 1 に近づくと軌道が無関係になる様子を見てください。

上段に x_0=0.4 と x_0=0.4+10^-10 から出発した 2 本の軌道が重なって進み、30 ステップ前後から別々の動きになる。下段は両者の差を対数軸で示し、点線 10^-10 × 2^n に沿って直線的に増え、1 に近づくと頭打ちになる。
ロジスティック写像の 2 本の軌道。初期値の差 10^-10 が毎ステップほぼ 2 倍になり、約 33 ステップで軌道が分かれる。点線は 10^-10 × 2^n
# ロジスティック写像で初期値鋭敏性を確かめる(標準ライブラリのみ)
def orbit(x, n):
for _ in range(n):
x = 4.0 * x * (1.0 - x)
return x
x0 = 0.4
for n in (10, 30, 50, 54, 60):
a, b = orbit(x0, n), orbit(x0 + 1e-16, n)
print(f"n={n:3d} A={a:.10f} B={b:.10f} |A-B|={abs(a-b):.3e}")

この現象を気象で発見したのがエドワード・ローレンツです。1963 年の論文で彼は、大気対流を 3 変数に切り詰めた常微分方程式が、周期的でも収束的でもない振る舞いを示し、しかも初期値のわずかな違いが増幅されることを示しました。「ブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスで竜巻を起こすか」という有名な問いかけは、この研究に由来します。現在の数値予報でも、大気のリアプノフ時間(誤差が ee 倍になる時間)は数日程度と見積もられており、これが「天気予報は 2 週間先までが限界」と言われる理論的な理由になっています。

例 4.4(太陽系そのものが予測不能になる時間)

惑星の運動こそニュートン力学の牙城ですが、そこにもカオスがあります。ジャック・ラスカールは 1989 年、太陽系全体の長期数値積分から、内惑星の軌道要素のリアプノフ時間が約 500500 万年であると報告しました。λ=1/(5×106 年)\lambda = 1/(5\times 10^6\ \text{年}) ということです。

いま、ある惑星の位置を 15 m15\ \mathrm{m} の誤差で知っているとします。11 億年後の誤差は

δ=15 m×exp⁡(1085×106)=15×e20=15×4.85×108≈7.3×109 m\delta = 15\ \mathrm{m} \times \exp\left( \frac{10^8}{5 \times 10^6} \right) = 15 \times e^{20} = 15 \times 4.85\times 10^{8} \approx 7.3 \times 10^{9}\ \mathrm{m}

となります。7.3×109 m7.3\times 10^9\ \mathrm{m} は約 730730 万 km で、太陽と地球の距離(1.5×1081.5\times10^8 km)の 5%5\% 程度です。地球の直径が 1.3×1041.3\times 10^4 km ですから、誤差は地球の直径の数百倍に育っています。この増え方が続くなら、誤差が軌道の大きさ(1.5×1011 m1.5\times10^{11}\ \mathrm{m})に達するのは 5×106×ln⁡(1010)≈1.2×1085\times10^6 \times \ln(10^{10}) \approx 1.2\times10^8 年後です。そのあたりから先では「地球が軌道上のどこにいるか」は言い当てられません。軌道の形は分かっても、軌道上のどの位置にいるかが分からなくなる、ということです。悪魔は 15 m の誤差すら許されません。


5. 第二の反撃:量子力学 — そもそも初期条件が存在しない

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カオスは悪魔の条件 1(誤差ゼロ)を実用上不可能にしました。量子力学はもっと根本的なところを突きます。「位置と運動量を同時に確定した値としてもつ」という状態そのものが、自然界に存在しないのです。

定理 5.1(ケナードの不確定性関係)※

1 次元の量子系の任意の状態において、位置 x^\hat{x} の測定値の標準偏差 Δx\Delta x と運動量 p^\hat{p} の測定値の標準偏差 Δp\Delta p は、つねに

Δx Δp ≥ ℏ2\Delta x \, \Delta p \ \ge\ \frac{\hbar}{2}

を満たします。ここで ℏ=h/2π≈1.055×10−34 J⋅s\hbar = h/2\pi \approx 1.055 \times 10^{-34}\ \mathrm{J\cdot s} はプランク定数を 2π2\pi で割った値です。

注意 5.2

この不等式は 1927 年にアール・ケナードが証明しました。証明は、正準交換関係 [x^,p^]=iℏ[\hat{x}, \hat{p}] = i\hbar とヒルベルト空間のコーシー・シュワルツの不等式から数行で導かれます。この記事の水準を超えるので詳細は省きますが、標準的な教科書、たとえば Sakurai–Napolitano『Modern Quantum Mechanics』第 1 章に完全な導出があります。重要なのは、これが「測定器が下手だから」という技術的な制約ではなく、状態の数学的な性質から出る定理だという点です。

例 5.3(電子を原子の中に閉じ込めるといくらの速度不確定性が出るか)

電子(質量 m=9.11×10−31 kgm = 9.11\times 10^{-31}\ \mathrm{kg})の位置を、原子のサイズ程度である Δx=1.0×10−10 m\Delta x = 1.0 \times 10^{-10}\ \mathrm{m} の精度で決めたとします。定理 5.1 より

Δp ≥ ℏ2Δx=1.055×10−342×1.0×10−10=5.28×10−25 kg⋅m/s\Delta p \ \ge\ \frac{\hbar}{2\Delta x} = \frac{1.055\times 10^{-34}}{2 \times 1.0\times 10^{-10}} = 5.28 \times 10^{-25}\ \mathrm{kg\cdot m/s}

です。これを速度に直すと

Δv=Δpm ≥ 5.28×10−259.11×10−31=5.8×105 m/s\Delta v = \frac{\Delta p}{m} \ \ge\ \frac{5.28\times 10^{-25}}{9.11\times 10^{-31}} = 5.8 \times 10^{5}\ \mathrm{m/s}

つまり秒速 580 km580\ \mathrm{km} です。「この電子は原子のここにいる」と言った瞬間、その速度は ±580\pm 580 km/s の幅をもってしまう。悪魔が要求する「位置と運動量をどちらも誤差ゼロで」は、ΔxΔp=0<ℏ/2\Delta x \Delta p = 0 < \hbar/2 を意味するので、定理 5.1 と真っ向から矛盾します。悪魔の条件 1 は、実行が難しいのではなく、定義が矛盾しているのです。

例 5.4(なぜ日常では量子効果が見えないのか)

同じ計算を、質量 m=1.0×10−3 kgm = 1.0\times 10^{-3}\ \mathrm{kg}(1 g)のパチンコ玉に対して、位置精度 Δx=1.0×10−6 m\Delta x = 1.0\times 10^{-6}\ \mathrm{m}(1 マイクロメートル)で行います。

Δv ≥ ℏ2mΔx=1.055×10−342×10−3×10−6=5.3×10−26 m/s\Delta v \ \ge\ \frac{\hbar}{2 m \Delta x} = \frac{1.055\times 10^{-34}}{2 \times 10^{-3} \times 10^{-6}} = 5.3\times 10^{-26}\ \mathrm{m/s}

この速度で宇宙の年齢(138138 億年 =4.35×1017 s= 4.35\times 10^{17}\ \mathrm{s})だけ動き続けても、進む距離は

5.3×10−26×4.35×1017=2.3×10−8 m=23 nm5.3\times 10^{-26} \times 4.35\times 10^{17} = 2.3\times 10^{-8}\ \mathrm{m} = 23\ \mathrm{nm}

にしかなりません。原子 100100 個分ほどです。だから日常のスケールでは、量子力学的な不確定性は完全に無視できます。ℏ\hbar が 10−3410^{-34} という途方もなく小さい数であることが、私たちの世界が「古典的に」見える理由なのです。

ここで急いで付け加えなければならないことがあります。量子力学は決定論を殺していない、という点です。量子状態 ∣ψ(t)⟩|\psi(t)\rangle の時間発展はシュレーディンガー方程式

iℏ∂∂t∣ψ(t)⟩=H^∣ψ(t)⟩i\hbar \frac{\partial}{\partial t} |\psi(t)\rangle = \hat{H} |\psi(t)\rangle

に従います。これは ∣ψ⟩|\psi\rangle についての 1 階の微分方程式であり、定義 2.2 の意味でれっきとした決定論的な系です。初期状態 ∣ψ(0)⟩|\psi(0)\rangle が与えられれば、任意の時刻の ∣ψ(t)⟩|\psi(t)\rangle は一つに決まります。

ではランダムさはどこから来るのか。測定からです。決定論的に決まった ∣ψ(t)⟩|\psi(t)\rangle に対して、「では位置を測ったらどこにあるか」を問うと、答えは確率的にしか出てきません(この確率を与えるのが ボルン則(定義 2.2)[シュレーディンガーの猫] です)。この「なぜ決定論的な波動関数から確率的な測定結果が出るのか」という問題は測定問題(注意 5.1[シュレーディンガーの猫])と呼ばれ、量子力学が誕生して 100 年たったいまも解釈が分かれています。この論争の入口が シュレーディンガーの猫 です。

つまり悪魔をこう改造することはできます。「宇宙の波動関数を完全に知り、シュレーディンガー方程式を解ける知性」。この改造版の悪魔は、未来のすべての波動関数を知ることができます。ただし彼に「明日の実験結果は何か」と尋ねると、返ってくるのは確率だけです。ラプラスは「確率は無知の表現だ」と考えましたが、量子力学の確率は、少なくとも標準的な解釈では、無知ではなく自然そのものの性質だとされます。ラプラスの世界観は、彼が確率を語ったその同じ場所で反転させられたことになります。


6. 第三の反撃:悪魔は宇宙の中に住んでいる

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カオスと量子力学は物理からの反撃でした。もう一つ、論理からの反撃があります。定義 3.1 の条件 3、「有限時間で計算しきる」を素直に読むと、次の困難が現れます。

まず単純な情報量の問題です。定義 2.1 のとおり、NN 粒子の状態を書き下すには 6N6N 個の実数が必要です。理想気体 11 モルなら N=6.02×1023N = 6.02\times10^{23} なので 6N=3.6×10246N = 3.6\times 10^{24} 個。11 つの数を 88 バイトで記録するとして 2.9×10252.9\times 10^{25} バイトです。20202020 年代半ばに世界中に存在するデジタルデータの総量は 102310^{23} バイト程度と見積もられていますから、たった 11 モルの気体、つまりコップ 1 杯の空気の状態を書き留めるだけで、人類の全データの数百倍が要る計算になります。しかも「実数を 8 バイトで」は約 16 桁の近似であり、例 4.3 で見たように、その精度はロジスティック写像なら 54 ステップで溶けてなくなります。

さらに深刻なのは自己言及です。悪魔が宇宙の中にいる物理的な存在なら、悪魔の内部状態もまた宇宙の状態 x\boldsymbol{x} の一部です。すると悪魔は、自分自身の未来の計算結果を含めて計算しなければなりません。カール・ポパーは 1950 年の論文で、古典物理学の枠内であっても、系の内部にある予測装置が自分を含む系の未来を予測しきることはできないと論じました。「自分の次の予測を、それを実行するより前に知る」ことができないからです。悪魔が宇宙の外にいるなら話は別ですが、それはもはや物理の話ではなく神学の話になります。

情報を保持したり消去したりすること自体にも物理的な代償があります。ランダウアーの原理(定理 6.4)[マクスウェルの悪魔] によれば、11 ビットの情報を消去するには温度 TT の環境に少なくとも kBTln⁡2k_B T \ln 2 の熱を捨てなければなりません。悪魔が宇宙の状態を記録・更新し続ければ、その過程で必ずエントロピーが生じ、宇宙の状態を変えてしまいます。「観測する悪魔」と「熱力学」の関係は マクスウェルの悪魔 の主題です(記録と消去の代償まで数え入れると悪魔の収支がきちんと合うことは 系 6.5[マクスウェルの悪魔] にあります)。

ラプラスの悪魔が立っている 3 つの前提と、20 世紀に受けた 3 つの反撃

整理します。ラプラスの悪魔をめぐる 3 つの命題は、区別して扱う必要があります。

命題現代の評価
決定論:同じ初期状態からは同じ未来しか生じない古典系ではリプシッツ条件のもとで定理(定理 3.2)。量子系でも波動関数のレベルでは成立
予測可能性:有限の精度と有限の計算資源で未来を言い当てられるカオスにより否定される(定義 4.1、例 4.4)
完全な初期条件の存在:位置と運動量が同時に確定値をもつ量子力学により否定される(定理 5.1)

19 世紀の人々はこの 3 つを一続きのものだと思っていました。20 世紀の物理はそれを 3 つに切り分け、真ん中と一番下を否定したのです。残った一番上、すなわち決定論そのものは、いまも物理の方程式の中に生きています。

「では人間に自由意志はあるのか」と聞きたくなるかもしれません。正直に言うと、この記事の道具ではその問いに答えられません。カオスも量子的なランダムさも、「私が決めた」ことの説明にはならないからです。サイコロがどれだけ予測不能でも、サイコロに自由意志があるとは普通言いません。それでもラプラスの悪魔は、「予測できること」と「決まっていること」がまったく別物だという、驚くほど有用な区別を私たちに残しました。物理学に残る他の大きな問いは 物理学の未解決問題 にまとめてあります(たとえば 定義 3.1[物理学の未解決問題] や 定義 4.1[物理学の未解決問題] です)。

最後に一つだけ、余談です。ナポレオンがラプラスに「君の天体力学の本には神が出てこないな」と言ったところ、ラプラスは「陛下、私にはその仮説は必要ありませんでした」と答えた、という逸話が伝わっています。この逸話の細部は伝聞によって食い違っており、どこまで実際の会話かは分かりません。ただ、彼の悪魔が背負っていた自信のほどは、よく伝えていると思います。


演習 8.1易

微分方程式 dxdt=x\dfrac{dx}{dt} = x の解は x(t)=x(0)etx(t) = x(0)e^{t} です。初期値が x(0)=1x(0) = 1 の場合と x(0)=1.001x(0) = 1.001 の場合について、t=10t = 10 における 2 つの解の差を求めてください。また、この系のリアプノフ指数(連続時間版では λ=lim⁡t→∞1tln⁡∣δ(t)/δ(0)∣\lambda = \lim_{t\to\infty}\frac1t \ln|\delta(t)/\delta(0)|)を求めてください。

解答

解の差は線形性から直接計算できます。

δ(10)=1.001 e10−1⋅e10=0.001×e10=0.001×22026.47=22.03\delta(10) = 1.001\,e^{10} - 1\cdot e^{10} = 0.001 \times e^{10} = 0.001 \times 22026.47 = 22.03

初期の差 0.0010.001 が 22.0322.03 に、およそ 2.22.2 万倍に拡大しました。

リアプノフ指数は δ(t)=δ(0)et\delta(t) = \delta(0)e^{t} なので

λ=lim⁡t→∞1tln⁡∣δ(0)etδ(0)∣=lim⁡t→∞1t⋅t=1\lambda = \lim_{t\to\infty}\frac{1}{t}\ln\left|\frac{\delta(0)e^{t}}{\delta(0)}\right| = \lim_{t\to\infty}\frac{1}{t}\cdot t = 1

です。ただし注意してください。λ>0\lambda > 0 でもこの系はカオスではありません。定義 4.1 でカオスの条件に「有界な領域に閉じ込められた運動」を入れたのはこのためです。この系の解は単に無限大へ飛んでいくだけで、軌道が折りたたまれて混ざり合うという、カオスに特徴的な振る舞いをしません。カオスには「引き伸ばし」と「折りたたみ」の両方が要ります。

演習 8.2標準

命題 4.2 のロジスティック写像 xn+1=4xn(1−xn)x_{n+1} = 4x_n(1-x_n) を、初期値の精度 δ0=10−30\delta_0 = 10^{-30}(倍精度をはるかに超える高精度計算)で追跡します。誤差が 11 に達するのは何ステップ後でしょうか。また、精度を δ0=10−16\delta_0 = 10^{-16} から 10−3010^{-30} に上げたことで、予測可能なステップ数は何倍になったかを答えてください。

解答

命題 4.2 より誤差は毎ステップ 22 倍なので、nn ステップ後の誤差は δn=2nδ0\delta_n = 2^n \delta_0 です。δn≥1\delta_n \ge 1 となる条件は

2n×10−30≥1  ⟺  n≥30ln⁡10ln⁡2=30×2.3025850.693147=99.662^n \times 10^{-30} \ge 1 \iff n \ge \frac{30 \ln 10}{\ln 2} = \frac{30 \times 2.302585}{0.693147} = 99.66

なので n=100n = 100 ステップ後です。

例 4.3 で求めたとおり δ0=10−16\delta_0 = 10^{-16} のときは 5454 ステップでしたから、倍率は 100/54=1.85100/54 = 1.85 倍にすぎません。精度を 101410^{14} 倍(100100 兆倍)改善して、予測可能な時間は 22 倍にもならないのです。

一般に予測可能なステップ数は n≈1λln⁡1δ0n \approx \dfrac{1}{\lambda}\ln\dfrac{1}{\delta_0} であり、δ0\delta_0 の対数にしか依存しません。カオス系で「もっと精密に測れば予測できる」という戦略が絶望的なのは、この対数のせいです。

演習 8.3標準

水素原子の中の電子を考えます。位置の不確定性を原子半径程度の Δx=5.3×10−11 m\Delta x = 5.3\times 10^{-11}\ \mathrm{m}(ボーア半径)とするとき、定理 5.1 から運動量の不確定性の下限 Δp\Delta p を求め、それを使って運動エネルギーのおおよその大きさ E∼(Δp)2/(2m)E \sim (\Delta p)^2/(2m) を電子ボルト単位(1 eV=1.602×10−19 J1\ \mathrm{eV} = 1.602\times 10^{-19}\ \mathrm{J})で見積もってください。電子の質量は m=9.11×10−31 kgm = 9.11\times10^{-31}\ \mathrm{kg} とします。

解答

まず運動量の下限です。

Δp ≥ ℏ2Δx=1.055×10−342×5.3×10−11=9.95×10−25 kg⋅m/s\Delta p \ \ge\ \frac{\hbar}{2\Delta x} = \frac{1.055\times 10^{-34}}{2 \times 5.3\times 10^{-11}} = 9.95\times 10^{-25}\ \mathrm{kg\cdot m/s}

これを運動エネルギーに直します。

E∼(Δp)22m=(9.95×10−25)22×9.11×10−31=9.90×10−491.822×10−30=5.43×10−19 JE \sim \frac{(\Delta p)^2}{2m} = \frac{(9.95\times 10^{-25})^2}{2 \times 9.11\times 10^{-31}} = \frac{9.90\times 10^{-49}}{1.822\times 10^{-30}} = 5.43\times 10^{-19}\ \mathrm{J}

電子ボルトに換算すると

E∼5.43×10−191.602×10−19=3.4 eVE \sim \frac{5.43\times 10^{-19}}{1.602\times 10^{-19}} = 3.4\ \mathrm{eV}

です。水素原子の実際のイオン化エネルギーは 13.6 eV13.6\ \mathrm{eV} ですから、桁は合っています(因子 44 のずれは、Δp\Delta p を下限で置き換え、ポテンシャルエネルギーを無視した粗い見積もりだからです)。

この計算が示しているのは、原子が潰れない理由です。電子を原子核に近づけようとして Δx\Delta x を小さくすると、Δp≥ℏ/(2Δx)\Delta p \ge \hbar/(2\Delta x) により運動量が大きくなり、運動エネルギーが 1/(Δx)21/(\Delta x)^2 で急増します。クーロン引力による位置エネルギーの下がり方は −1/Δx-1/\Delta x なので、十分小さい Δx\Delta x では運動エネルギーの増大が勝ちます。不確定性関係は、悪魔から情報を奪っただけでなく、私たちの体を作っている原子に大きさを与えているのです。


  • ピエール=シモン・ラプラス『確率の哲学的試論』内井惣七訳、岩波文庫、1997(原著 Essai philosophique sur les probabilités, 1814)— 冒頭の「確率について」の章に、いわゆる「悪魔」の一節があります。
  • E. N. Lorenz, “Deterministic Nonperiodic Flow”, Journal of the Atmospheric Sciences 20 (1963), 130–141. カオスの初期値鋭敏性を数値実験で示した記念碑的論文です。
  • J. Laskar, “A numerical experiment on the chaotic behaviour of the Solar System”, Nature 338 (1989), 237–238. 太陽系のリアプノフ時間を数値積分で評価した論文です。
  • E. H. Kennard, “Zur Quantenmechanik einfacher Bewegungstypen”, Zeitschrift für Physik 44 (1927), 326–352. ΔxΔp≥ℏ/2\Delta x \Delta p \ge \hbar/2 の形の不確定性関係を最初に厳密に証明しました。
  • S. H. Strogatz, Nonlinear Dynamics and Chaos, 2nd ed., Westview Press, 2015 — 第 9 章(ローレンツ方程式)と第 10 章(ロジスティック写像)。命題 4.2 の議論はこの本の水準で丁寧に扱われています。
  • J. J. Sakurai and J. Napolitano, Modern Quantum Mechanics, 3rd ed., Cambridge University Press, 2020 — 第 1 章に 定理 5.1 の完全な証明があります。

Appendix: 一意性の証明で「リプシッツ条件」が本質的な理由

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なぜ連続性だけでは足りないのか。 定理 3.2 の証明を振り返ると、リプシッツ条件を使ったのは ∥F(x(s))−F(y(s))∥≤L u(s)\lVert \boldsymbol{F}(\boldsymbol{x}(s)) - \boldsymbol{F}(\boldsymbol{y}(s)) \rVert \le L\,u(s) という 1 か所だけでした。この不等式は「2 つの軌道のずれの成長速度が、いまのずれの大きさに比例する(それ以上速くならない)」と言っています。成長速度がずれの大きさに比例するなら、ずれ 00 から出発した以上ずれは決して育ちません。00 に何を掛けても 00 だからです。

リプシッツ条件が壊れると何が起きるか。 ところが 例 3.3 の F(x)=3x2/3F(x) = 3x^{2/3} では、x=0x = 0 の近くで FF の「傾き」が無限大に発散します。すると、いまのずれが 00 であっても、成長速度が 0×∞0 \times \infty という不定形になり、育たないという保証が失われます。実際 xc(t)=(t−c)3x_c(t) = (t-c)^3 は、x=0x = 0 という状態から有限時間で 00 でない状態に離陸してしまいました。

微分可能なら大丈夫か。 十分条件として便利なのは次の事実です。F\boldsymbol{F} が C1C^1 級(成分が連続微分可能)ならば、有界な閉領域上でリプシッツ条件が成り立ちます。理由は平均値の定理です。ヤコビ行列 DFD\boldsymbol{F} の作用素ノルムは連続関数なので、有界閉集合上で最大値 LL をとります。この LL を使えば、線分で結べる 2 点 u,v\boldsymbol{u}, \boldsymbol{v} に対して

∥F(u)−F(v)∥=∥∫01DF(v+τ(u−v))(u−v) dτ∥≤L∥u−v∥\lVert \boldsymbol{F}(\boldsymbol{u}) - \boldsymbol{F}(\boldsymbol{v}) \rVert = \left\lVert \int_0^1 D\boldsymbol{F}\bigl(\boldsymbol{v} + \tau(\boldsymbol{u}-\boldsymbol{v})\bigr)(\boldsymbol{u}-\boldsymbol{v})\, d\tau \right\rVert \le L \lVert \boldsymbol{u} - \boldsymbol{v}\rVert

が従います。F(x)=3x2/3F(x) = 3x^{2/3} が反例になったのは、まさに x=0x=0 で微分可能でなかったからです。

物理への含意。 万有引力 F∝r/∥r∥3\boldsymbol{F} \propto \boldsymbol{r}/\lVert\boldsymbol{r}\rVert^3 もクーロン力も、r≠0\boldsymbol{r} \ne \boldsymbol{0} では C∞C^\infty 級ですから、粒子どうしが衝突しない限りリプシッツ条件は満たされ、定理 3.2 が使えます。逆に言えば、粒子が衝突する瞬間(r=0\boldsymbol{r} = \boldsymbol{0})には力が発散し、決定論の保証が切れます。33 体以上の重力多体問題では実際に衝突による特異点が起こりえます。さらに 55 体以上では、衝突を経ずに有限時間で無限遠へ飛び去る解(非衝突特異点)が存在することが Xia によって示されました(1992 年。33 体の場合は、パンルヴェにより特異点は衝突に限ることが分かっています)。こうした特異点に到達したあとは、古典力学の決定論そのものが定義できなくなります。ラプラスの悪魔は、カオスや量子力学に出会うより前に、方程式の特異点でつまずいていたわけです。

このテーマの 100 本ノック(50 問)

執筆: Claude Code(Sonnet 5.5)・監査 3 回(Claude Code)・最終 2026-10-12

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