Kähler 多様体:Kähler 計量・Kähler 恒等式・Ricci 形式
対象読者: 本テーマ第 2〜3 章の内容と、Riemann 計量・Levi-Civita 接続、Hodge 理論(調和形式・Laplace 作用素)を学んだ修士課程の人。Kähler 幾何は仮定しません。
前提となる記事:概複素構造と Dolbeault コホモロジー:(p,q) 形式・可積分性・∂̄ の Poincaré の補題、正則ベクトル束・Chern 接続・直線束と因子、Riemann 計量と Levi-Civita 接続:接空間どうしをつなぐ微分、Hodge 理論と Laplace–Beltrami 作用素:調和形式・Weitzenböck 公式・熱核
0. この記事の要点
Section titled “0. この記事の要点”複素数の座標で書かれた曲面や空間に、長さや角度を測る道具(計量)を入れるとき、座標の複素数らしさと計量が「ちょうどよく噛み合う」条件があります。それが Kähler 条件です。この記事では、その条件を何通りかに言い換え、条件のもとで微分形式の微分と Laplacian(微分の 2 階版)が美しく整理されること、曲率が一つの式にまとまることを順に見ます。読み終えると、次章の Hodge 分解がなぜ成り立つのかの出発点を自分で追えるようになります。
- 複素多様体の Riemann 計量 が複素構造 で不変なとき Hermite 計量といい、 を基本形式といいます。 は正の実 形式で、 のとき Kähler 計量といいます。
- Kähler 条件は、Levi-Civita 接続で であること、正則接束の Chern 接続が Levi-Civita 接続に一致すること、各点のまわりに計量が 2 次の項まで平坦な正則座標があること、と同値です。最後の言い換えにより、計量の 1 階微分までしか含まない恒等式は で確かめれば十分になります。
- 、複素トーラス、Riemann 面、射影空間(Fubini–Study 計量)、それらの複素部分多様体と積は Kähler です。コンパクト Kähler 多様体では が完全形式でないので偶数次の Betti 数が正で、Hopf 曲面は Kähler 計量をもちません。
- 、その随伴 、次数作用素 は各点で の関係式 、、 を満たします。
- Kähler 恒等式 、 から、三つの Laplacian について が従います。これが次章の Hodge 分解の出発点です。
- Kähler 多様体の Ricci 形式は で、 を代表します。同じ Kähler 類の中で Ricci 形式が等しい Kähler 計量は一致します(Calabi)。指定した Ricci 形式をもつ計量の存在(Yau の定理)は主張だけを述べます。
複素多様体には、複素構造とは別に Riemann 計量を入れることができます。計量が複素構造と何の関係もなければ、複素解析の道具(、、型による分解)と Riemann 幾何の道具(Levi-Civita 接続、Hodge スター、調和形式)は別々に働くだけです。両者がうまく噛み合うための条件が Kähler 条件です。
噛み合い方は次のように現れます。Riemann 多様体では、de Rham コホモロジーの各類が調和形式でただ一つ代表されました(Hodge の定理)。複素多様体では、 の代わりに を使った Laplacian も考えられ、Dolbeault コホモロジーの類を代表する「 調和形式」が定まります。一般の Hermite 計量では、 についての調和形式と についての調和形式は無関係です。Kähler 計量では となり、二つの調和性が一致します。その結果、de Rham コホモロジーが Dolbeault コホモロジーの直和に分解します(次章の Hodge 分解)。
のもとになるのが Kähler 恒等式で、その証明がこの章の中心です。証明の方針は、「Kähler 計量は各点で 2 次の項まで平坦な計量と区別できない」という事実を使って、 の定数係数の計算に帰着させることです。
章の後半では Ricci 曲率を扱います。Kähler 多様体の Ricci 曲率は 形式 にまとまり、標準束の曲率そのものになります。これにより「Ricci 曲率が の Kähler 計量」(Calabi–Yau 計量)の存在が、第一 Chern 類という位相的な量の条件と結びつきます。
2. Hermite 計量と基本形式
Section titled “2. Hermite 計量と基本形式”を複素構造 をもつ 次元実ベクトル空間とする。
- 実の 2 形式 が 型であることと、 がすべての で成り立つことは同値である。
- で不変な内積 ( を満たす正定値対称双線型形式)と、正の実 形式 ( ならば )は、、 により一対一に対応する。
- このとき は 上の正定値 Hermite 内積(第 1 変数について複素線型)で、 の基底 で となるもの(ユニタリ基底)がある。 は の正規直交基底で、その双対基底を 、 とすると
である。
証明(補題 2.1)
(1) 型の 1 形式 は 、 型は を満たすので、 とおくと、 は 上で 倍、 上で 倍、 上で 倍です。 と分解すると なので、 は と同値です。
(2) が与えられたとき、 なので は交代形式で、 から (1) により 型、 です。逆に が与えられたとき、 は で対称、、 で 不変です。二つの対応は互いに逆です()。
(3) 、、 なので正定値 Hermite 内積で、Gram–Schmidt の直交化でユニタリ基底が取れます。 の実部と虚部を取ると 、 です。 不変性から で、 です。よって は正規直交基底で、 の式が従います。、、 から です。 から第 2 の表示が出ます。 は 、( の行列から)によります。2 形式 は互いに可換で なので、 です。
定義 2.2(Hermite 計量・基本形式・Kähler 計量)↗
を 次元複素多様体、 をその概複素構造とする。 の Riemann 計量 (定義 3.1[Riemann 計量と Levi-Civita 接続])が を満たすとき Hermite 計量といい、 を Hermite 多様体という。実 形式 を基本形式という。正則座標 について ()とおく。
のとき を Kähler 計量、 を Kähler 形式、de Rham 類 を Kähler 類といい、Kähler 計量をもつ複素多様体を Kähler 多様体という。
補題 2.1 により、Hermite 計量を与えることと、正の実 形式 を与えることは同じです。 は各点で正定値 Hermite 行列で、(両辺とも について複素線型、 について共役線型で、 の上で一致します)なので、 から
です。同型 、()で を移すと、正則接束 の Hermite 計量(定義 4.1[正則ベクトル束・Chern 接続・直線束と因子])になり、正則枠 についての行列は の転置です。 の標準的な計量では 、 です。体積形式は標準的な向きについて です。
Hermite 計量はつねに存在します。任意の Riemann 計量 (定理 3.6[Riemann 計量と Levi-Civita 接続])から とすればよいからです。Kähler 計量が存在するかどうかは、複素多様体に対する本当の制約です。
3. Kähler 条件の同値な言い換え
Section titled “3. Kähler 条件の同値な言い換え”次の定理は、 という一見すると形式的な条件が、「各点で計量が 2 次の項まで平坦に見える」「接続が一致する」という幾何的な性質と同じであることを述べます。証明の中心は (1) ⇒ (2) で、計量の係数の 1 次の項を、座標を 2 次の項だけ取り替えて消す、という操作です。 から出る対称性 があるので、取り替えがちょうどうまくいきます。
を Hermite 多様体、 を基本形式、 を の Levi-Civita 接続(定理 5.2[Riemann 計量と Levi-Civita 接続])とする。次は同値である。
- 。
- 各点 のまわりに、 を原点とする正則座標 で 、すなわち かつ の 1 階偏導関数がすべて原点で となるものがある。
- 正則接束 の Chern 接続は、同型 のもとで Levi-Civita 接続 に一致する。
- 、すなわち任意のベクトル場 について 。
証明(定理 3.1)
(1) ⇒ (2)。 を原点とする正則座標 を取ります。 のユニタリ基底(補題 2.1 の 3)に合わせて複素線型な座標変換をすれば、 としてよいです。Taylor 展開して
と書きます。 から です。 の 成分 から で、原点で です。新しい座標 を
で定めます。右辺は の正則写像で、原点での複素 Jacobi 行列が単位行列なので、逆関数定理(定理 3.1[複素多様体と正則写像] の 2)により は原点の近傍の正則座標です。対称性 を使うと
です。 に注意して、 の 2 次以上の項を無視すると
です。第 2 式の第 2 項は添字を と付け替えると 、第 3 項は と付け替えると で、第 1 式の 1 次の項をちょうど打ち消します。よって 座標で です。
(2) ⇒ (3)。 Chern 接続を で実の接束に移した接続を とします()。 とし、(2) の座標 を取ります。正則枠 についての Chern 接続の接続形式は (定理 4.2[正則ベクトル束・Chern 接続・直線束と因子])で、 の成分 の 1 階偏導関数が で なので、 で です。よって で 、つまり で、Chern 接続は複素線型なので です。一方、 の実座標 についての成分は の実部・虚部の線型結合なので、その 1 階偏導関数も で で、Christoffel 記号の式(定理 5.2[Riemann 計量と Levi-Civita 接続])から で です。二つの接続の差 は関数について線型()なので、枠の上で において一致すれば で一致します。 は任意なので です。
(3) ⇒ (4)。 Chern 接続は複素ベクトル束 の接続なので 倍と可換で、 から です。 なので です。
(4) ⇒ (1)。 と、 が計量と両立することから
です。局所正規直交枠 と双対余枠 について (補題 5.1[Hodge 理論と Laplace–Beltrami 作用素])なので、 です。
(2) の座標を、 における接触座標(osculating coordinates)と呼ぶことにします。Riemann 幾何では、どんな計量も各点で 1 次まで平坦にできました(測地正規座標)。Kähler 条件は、それが正則な座標変換だけでできるための条件です。2 次の項は一般には消せず、そこに曲率が現れます。
を複素多様体、 を閉じた実 形式とする。各点は開近傍 をもち、 上の実数値の滑らかな関数 で となるものがある。逆に、実数値関数 について は閉じた実 形式で、それが Kähler 形式であることは、Hermite 行列 が各点で正定値であることと同値である。
証明(命題 3.2)
正則チャートで多重円板に写る近傍 を取ります。 は星形なので、Poincaré の補題(定理 3.4[de Rham コホモロジー])により実 1 形式 で となるものがあります。 と分けると、 が実なので です。 で、 は 型なので です。多重円板の Dolbeault コホモロジーの消滅(定理 7.2[概複素構造と Dolbeault コホモロジー])により、複素数値関数 で となるものがあります。 なので
で、 とすればよいです。逆に、 は閉形式で、 から実、 型です。 を と比べて なので、正であることは が正定値であることです。
を Kähler ポテンシャルといいます。Kähler 計量は、局所的には 1 個の実数値関数で決まります。 の標準的な計量は です。ポテンシャルは一意ではなく、 となる実関数 (多重調和関数、たとえば正則関数の実部)の分だけ不定です。
4. Kähler 多様体の例と Wirtinger の定理
Section titled “4. Kähler 多様体の例と Wirtinger の定理”上の実 形式
(定理 5.2[正則ベクトル束・Chern 接続・直線束と因子] の 2)は Kähler 形式である。ユニタリ群 の への作用 は双正則で を保つ。 の任意の直線( の 2 次元部分空間の像) について である。
証明(命題 4.1)
は直線束 の第一 Chern 形式なので、閉じた実 形式です(命題 4.3[正則ベクトル束・Chern 接続・直線束と因子] の 3)。
不変性。 を射影とします。 上で 、 なので、 が 上で成り立ちます。 に対し は well-defined で、斉次座標の線型変換なので正則、逆 も正則です。 と から
です(正則写像 による引き戻しは 、 と可換)。 の微分は全射なので は形式について単射で、 です。
正値性。 点 で、 の座標 について なので、 で で、正です。 は の単位ベクトルの全体に推移的に作用するので、任意の点 は と書けます。 は双正則(微分は と可換な同型)で を保つので、 でも ()です。
直線。 2 次元部分空間の正規直交基底を、標準基底の に写すユニタリ行列 を取ると、 は を に写す双正則写像です。(定理 5.2[正則ベクトル束・Chern 接続・直線束と因子] の 3)です。
- を Kähler 多様体、 を複素部分多様体、 を包含写像とすると、 は の Kähler 形式である。
- 、 が Kähler 多様体なら、 は の Kähler 形式である。
- したがって、 の複素部分多様体(とくに非特異な射影超曲面)、 の複素部分多様体は Kähler 多様体である。複素トーラス と Riemann 面も Kähler 多様体である。
証明(命題 4.2)
(1) は正則なので は 型(命題 3.2[概複素構造と Dolbeault コホモロジー] の 3)、実で、 です。 は の で不変な部分空間で、 の概複素構造は の制限なので、、 について です。
(2) 射影は正則なので、和は閉じた実 形式です。 について値は で、 なら正です。
(3) は Fubini–Study 形式(命題 4.1)で、 は標準的な形式 で Kähler なので、(1) によります。 の標準的な Kähler 形式は平行移動で不変なので、 上の正の閉 形式を定めます。Riemann 面(実 2 次元)では 3 形式が なので、任意の Hermite 計量の基本形式が閉じています。
- を 不変な内積 をもつ 次元実ベクトル空間、 を対応する 形式、 を で不変な実 次元部分空間とする。 に の定める向きと の制限を与えると、 は の体積形式である。
- を Hermite 多様体、 を 次元のコンパクトな複素部分多様体とすると、誘導計量についての の体積は である。
- を 次元のコンパクト Kähler 多様体とする。 について は完全形式ではなく、、すなわち偶数次の Betti 数 は正である。 次元の閉な複素部分多様体 ()について、 は 上の でない線型形式である。
証明(定理 4.3)
(1) は で不変な内積で、対応する形式は です。補題 2.1 の 3 を に使うと、ユニタリ基底から作った正規直交基底 ( の定める向きの基底)の双対基底について で、これは向きづけられた正規直交基底の上で値 を取る形式、つまり体積形式です。
(2) の各接空間は で不変なので、(1) を各点で使い、積分します。
(3) と仮定すると、 から で、Stokes の定理(系 6.2[ストークスの定理])により です。これは に反します。 は閉形式なので です。 は境界のないコンパクトな向きづけられた多様体なので、完全形式の 上の積分は で、 は 上で定まります。(2) により での値は です。
(3) の後半は、コンパクト Kähler 多様体の閉な複素部分多様体が「境界にならない」こと(ホモロジー類が でないこと)を de Rham コホモロジーとの対で述べたものです。Riemann 幾何では小さな球面はいくらでも縮められますが、Kähler 多様体の複素部分多様体は体積が Kähler 類だけで決まり、縮めることができません。
例 4.4(Hopf 曲面は Kähler 計量をもたない)
Hopf 曲面(例 6.5[複素多様体と正則写像])は に微分同相です。球面のコホモロジー(定理 5.1[de Rham コホモロジー])と Künneth の公式(系 5.7[コホモロジーと双対性])から です。定理 4.3 の 3 により、コンパクト Kähler 曲面では なので、Hopf 曲面は Kähler 計量をもちません。とくに Hopf 曲面は射影空間に埋め込めません。一般の の Hopf 多様体 も同じ理由で Kähler ではありません。
5. Lefschetz 作用素の線型代数
Section titled “5. Lefschetz 作用素の線型代数”この節は、基本形式 を掛ける操作 と、その随伴 が、各点で の関係式を満たすことを示す、純粋な線型代数の節です。形式の次数を 2 つ上げる と 2 つ下げる の交換子が次数の測り方 になる、というのが結論で、次の節の Kähler 恒等式の計算の土台になります。証明は外積とその随伴の反交換関係を使う計算が中心で、各点の定数係数の計算にすぎません。
この節では、 を 不変な内積 をもつ 次元実ベクトル空間、 を対応する 形式、 とします。 は に内積を引き起こします(正規直交な余枠 について が正規直交基底になる内積で、余枠の取り方によりません。定義 2.1[Hodge 理論と Laplace–Beltrami 作用素] の設定と同じです)。これを に、第 1 変数について複素線型、第 2 変数について共役線型に延ばした Hermite 内積を と書きます。Hodge スター(命題 2.2[Hodge 理論と Laplace–Beltrami 作用素])は複素線型に延ばします。したがって
です。
定義 5.1(Lefschetz 作用素・次数作用素・原始形式)↗
上の線型作用素を
で定める。 を Lefschetz 作用素、 を次数作用素という。 を満たす形式を原始形式という。Hermite 多様体の上では、これらを各点で施して微分形式の上の作用素とする。
証明(補題 5.2)
(1) 第 2・第 3 の式は、1 形式のウェッジ積の反可換性とその随伴です。第 1 式の両辺は について複素線型、 について共役線型なので、実の正規直交余枠 の元 、 について示せば十分です。 とし、線型写像 を、 である多重指数 について 、 で定めます( と の全体は、符号を除いて基底 を尽くします)。 です。実際、 が でないのは 、()のときだけで、値は です。このとき なので で、それ以外の場合は両辺とも です。
のとき。 として、 の上では 、、 の上では 、 なので、 です。
のとき。 として、 の上では 、 で和は です( なら両方 )。 の上では で、 は を含まないので です。よって です。
(2) はまた正規直交余枠で、 なので、 は正規直交基底を正規直交基底に写します。
- ならば と は Hermite 内積について直交する。
- は を に、 は に、 は に写す。、、 は複素共役と可換で、 である。
- 、、 が成り立つ。
証明(補題 5.3)
(1) 実数 に対し とおきます。 と 不変性から なので、 は を保ちます。 について 、 について なので、 は 上で 倍です。補題 5.2 の 2 により は Hermite 内積を保つので、、 について です。次数が違えば直交するので としてよく、 なら で、 を となるように取れば です。
(2) は実の 形式なので、 は型を 上げ、共役と可換です。 のとき、 について で、 なので (1) により なら です。よって です。 から は共役と可換です。
について。 とし、 と型に分けます。()について、 は 次で型が なので、 でなければ です。よって で、 なので (1) により なら です。ユニタリ余枠 による基底 で見ると、ウェッジ積による対 は、 と補集合の添字の元 の積だけが でないので非退化です。したがって のとき で、 です。 を入れ替えて、 は を に写します。
は偶数次なので、 です(最後に と が共役と可換であることを使いました)。よって です。
(3) は 上で 倍で、 は次数を 上げるので、 について です。同様に は次数を 下げるので です。
を計算します。補題 2.1 の 3 の正規直交余枠 について なので、、 とおくと
です。補題 5.2 の 1 により、、 で、それ以外の、 のうち相異なる二つは反可換です。 のとき、 はどちらも と反可換なので、積 と は可換です。 のとき、添字を省いて
です(、 を使いました)。差を取ると です。よって
です。正規直交余枠 について、 は を、 なら に、そうでなければ に写すので、 は 上で 倍です。したがって です。
(3) は、、、 により が Lie 環 の表現になることを述べています。 の有限次元表現の構造(系 10.2[Lie 環の構造論])から、 のとき が同型であること、任意の形式が原始形式の のべきによる像の和に一意に分解されること(Lefschetz 分解)が従います。次章では、同じ議論を調和形式の空間に対して行い、コホモロジーの Lefschetz 分解を導きます。
6. Kähler 恒等式と三つの Laplacian
Section titled “6. Kähler 恒等式と三つの Laplacian”を 次元 Hermite 多様体とします。 の少なくとも一方の台がコンパクトなとき、
と書きます。
実 次元なので、 は余微分 (定義 3.1[Hodge 理論と Laplace–Beltrami 作用素])を複素線型に延ばしたもので、 は Hodge Laplacian です。
- は を に、 は に写し、、 である。
- の少なくとも一方の台がコンパクトならば、、、 である。
- を開集合、 を 上の線型写像とする。台がコンパクトなすべての とすべての について ならば である。
証明(補題 6.2)
(1) は を に写します(補題 5.3 の 2)。 について、 なので 、 なので です。 から で、 が共役と可換であることと から です。
(2) 、 とします。 は 次なので で、
です。したがって
で、 の台はコンパクトなので、Stokes の定理(定理 6.1[ストークスの定理])により です。、 のとき、 は と各点で直交し、 は と各点で直交する(補題 5.3 の 1)ので、 です。型が合わない場合は両辺とも なので、一般の についても成り立ちます。 についても同様です。
(3) を固定し、 とします。点 のまわりにコンパクトな台をもち である非負の滑らかな関数 (補題 6.1[部分多様体と正則値定理])を取り、 とすると で、被積分関数は非負で連続なので です。
(2) の性質をもつ作用素を形式的随伴といいます。(3) により、形式的随伴は(存在すれば)一意です。また、台を広げない線型作用素 が形式的随伴 をもてば、 なので の形式的随伴は です。各点での作用素 の形式的随伴は です。
証明の方針は二段階です。まず の標準的な計量で、定数係数の作用素どうしの計算として直接確かめます。次に、一般の Kähler 多様体では、定理 3.1 の 2 の座標(計量が 2 次の項まで平坦になる座標)を使って各点で の場合と比べ、差が で消えることを見ます。
証明(定理 6.3)
第 1 段: の開集合と標準的な計量の場合。 を開集合、 とします。形式を定数係数の基底 で表し、、 で係数に 、 を施す作用素を表します。、、、 とおきます。これらは各点での定数係数の作用素なので と可換で、
です( は の随伴で、、)。 から 、、 なので、補題 5.2 の 1 により
です。
を求めます。 の台がコンパクトなとき、 の随伴が であることと、係数ごとの部分積分 から
です。形式的随伴の一意性(補題 6.2 の 2・3)により
が作用素として成り立ちます。
交換子を計算します。反交換関係から
なので です。よって
です。
第 2 段:一般の Kähler 多様体。 とし、 における接触座標(定理 3.1 の 2)を取ります。座標近傍 の上で、与えられた計量 のほかに、この座標についての標準的な計量 ()を考え、 から決まる作用素を 、、 と書きます。 と は各点での線型代数で決まる作用素で、基底 についての行列成分は、 の実部・虚部の滑らかな関数です(内積の Gram 行列、その逆行列、体積形式の係数で書けます)。 なので、 と の行列成分は 、つまり での値と 1 階偏導関数がすべて です。
任意の形式 について、 での値を比べます。 なので
で、第 1 項は が で なので で 、第 2 項は の係数が でその 1 階微分が で なので で です。同様に
も で です。第 1 段により なので、 で です。 は任意なので第 1 の恒等式が得られます。
残りの恒等式。 第 1 の恒等式を に使って共役を取ります。 は共役と可換(補題 5.3 の 2)、、(補題 6.2 の 1)なので です。形式的随伴を取ると、 の形式的随伴は 、 の形式的随伴は なので で、同様に です。
第 2 段の議論は、Kähler 計量についての次の原則の典型的な使い方です。計量とその 1 階微分だけを含む恒等式は、 の標準的な計量で成り立てば、すべての Kähler 多様体で成り立つ。 Kähler でない Hermite 多様体では、恒等式に (捩率)を含む補正項が付きます。
を Kähler 多様体とする。
- 、。
- 。
- は型を保つ( を に写す)。したがって各型への射影 と可換で、また複素共役とも可換である。
- は 、、 と可換である。 は 、、 と、 は 、、 と可換である。
証明(系 6.4)
(2) と (3) が次章の Hodge 分解の核心です。 調和な形式を型に分けた各成分がまた調和で、しかも 調和でもある、ということから、de Rham コホモロジーの調和代表元の空間が Dolbeault コホモロジーの調和代表元の空間の直和になります。(4) は調和形式の空間に が作用することを意味し、難 Lefschetz 定理のもとになります。
7. Ricci 形式
Section titled “7. Ricci 形式”定義 7.1(Ricci 形式と Kähler–Einstein 計量)↗
Kähler 多様体 の Ricci 曲率 (定義 4.1[曲率テンソル])に対し、
を Ricci 形式という。定数 について (同じことだが )となる Kähler 計量を Kähler–Einstein 計量という。
を 次元 Kähler 多様体、 を Riemann 曲率テンソル(定義 2.1[曲率テンソル])とする。
- は と可換で、、 である。したがって は実の 形式である。
- 正則接束 の Chern 接続の曲率を とすると で、正則座標で
である。 3. は閉形式で、 倍を除いて、 に から誘導された計量を入れたときの Chern 接続の曲率に等しい。その de Rham 類は である()。
証明(定理 7.2)
(1) (定理 3.1)なので、 です。 不変性と合わせて で、対称性 (命題 3.1[曲率テンソル] の 4)から です。正規直交基底 に対し も正規直交基底なので
です。 なので は 2 形式で、 から 型です(補題 2.1 の 1)。
(2) Chern 接続は のもとで Levi-Civita 接続に一致する(定理 3.1 の 3)ので、曲率も一致します(どちらも で与えられます。命題 5.1[ファイバー束・主束と接続] の 3)。つまり は、複素線型写像 です。
複素線型写像 の複素トレースと実トレースの関係を見ます。複素基底について ( は実行列)と書くと、実行列としては 、 で、 です。よって 、 です。 は について反対称(命題 3.1[曲率テンソル] の 2)なので で、
です。右辺を計算します。 と第 1 Bianchi 恒等式(命題 3.1[曲率テンソル] の 3) から
です。 が と可換なので、 で、 について足すと です。同様に で、和は です。(1) から なので
です。よって です。(命題 4.3[正則ベクトル束・Chern 接続・直線束と因子] の 2)で、 は の転置なので行列式は同じです。
(3) は閉形式で、類は です。 が の誘導計量 の曲率であることは 定理 4.5[正則ベクトル束・Chern 接続・直線束と因子] の 1 のとおりです。
Riemann 幾何では Ricci 曲率は計量の 2 階微分の複雑な式ですが、Kähler 幾何では体積密度 の対数の という簡単な形になります。その類は計量によらず なので、Ricci 曲率の符号には位相的な制約があります。たとえば Ricci 曲率が の Kähler 計量があれば です。
を複素構造をもつ 次元実ベクトル空間、 を正の実 形式、 とする。このとき は、標準的な向きについて非負の 形式である。すべての が同じ のとき、 に対応する内積についての体積形式 とユニタリ余枠 、 について
である。
証明(補題 7.3)
の基底 を固定します。、 について、 です。2 形式は互いに可換で、 を に並べ替える符号と、 について逆に並べ替える符号は同じなので
です。 と書くと で、右辺は標準的な向きについて非負です。各 は、それに対応する内積のユニタリ余枠 によって と書けます(補題 2.1 の 3)。これを代入して展開すると、 は上の形の積の非負係数の和なので、非負です。
後半。 の 乗は です。 との積で残るのは、欠けている添字 について の項だけなので
で、 です。
証明の筋道は三段階です。(i) 二つの体積形式の比が定数であることを、Ricci 形式が等しいという仮定からKähler 恒等式とコンパクト性を使って示します。(ii) その定数が 1 であることを、同じ Kähler 類なので体積が等しいことから導きます。(iii) すると二つの形式の差を決める関数が、Stokes の定理と正値性の議論で定数に潰れ、差が 0 になります。
証明(命題 7.4)
とし、 に対応する Hermite 計量の行列を 、 とします。
第 1 段:体積形式の比は定数。 ( を展開する)なので、 は座標によらない 上の実数値関数で、 です。定理 7.2 の 2 から で、仮定により です。計量 について Kähler 恒等式 (定理 6.3)を 形式 に使うと、(型による)なので
です。 はコンパクトなので (補題 6.2 の 2)で、 です。 は実数値なので 、 で、 は連結なので は定数 です。
第 2 段:。 なので と書けます。 とおくと、 は閉形式で
なので、Stokes の定理から です。 と から 、 です。
第 3 段:。 は 完全な実 形式なので、 補題(補題 5.2[Hodge 分解と Lefschetz 分解])により となる複素数値関数 があります。左辺は実なので で、()です。第 2 段から
です。、、 から
で、Stokes の定理により
です( は実なので )。補題 7.3 により各項の被積分形式は各点で非負なので、すべての項の被積分形式が恒等的に です。 の項は ( は のユニタリ余枠についての成分の絶対値の 2 乗和)なので で、、したがって です。
第 3 段の方程式 は、 についての複素 Monge–Ampère 方程式の特別な場合です。右辺を一般の に替えた方程式の解の存在が、次の Yau の定理の内容です。
を連結なコンパクト Kähler 多様体、 を Kähler 形式、 を を代表する閉じた実 形式とする。このとき、 と同じ Kähler 類に属する Kähler 形式 で、Ricci 形式が に等しいものがただ一つ存在する。とくに ならば、各 Kähler 類は Ricci 曲率が の Kähler 計量をただ一つ含む。
注意 7.6(主張のみとする理由)
一意性は 命題 7.4 で証明しました。存在は主張のみとします。存在の証明は、複素 Monge–Ampère 方程式 を連続法で解くもので、解の 評価(Moser の反復法)、2 階・3 階微分のアプリオリ評価、Schauder 理論による正則性を必要とし、その全体は論文 1 本分の非線型解析です。このテーマの残りの章では使いません。原論文は S.-T. Yau, “On the Ricci curvature of a compact Kähler manifold and the complex Monge–Ampère equation. I”, Communications on Pure and Applied Mathematics 31 (1978) で、予想と一意性は E. Calabi によります。 のコンパクト Kähler 多様体に Ricci 平坦な Kähler 計量を入れたものが Calabi–Yau 多様体で、 の 5 次超曲面(標準束が自明。前章の随伴公式による)がその例です。この計量を具体的な式で書く方法は知られていません。
例 8.1(ℂⁿ・複素トーラス・Riemann 面)
の標準的な計量は 、Kähler ポテンシャル 、曲率 で、Ricci 形式も です。複素トーラス にはこの計量が降り、Ricci 平坦な Kähler 計量になります( で、接束は自明です)。より一般に、正定値 Hermite 行列 ごとに不変な Kähler 形式 があり、その Kähler 類は ごとに異なります。定理 7.5 の一意性は、各 Kähler 類の Ricci 平坦計量がこの平坦な計量であることを意味します。
Riemann 面では、任意の Hermite 計量 が Kähler で、Ricci 形式は 、Gauss 曲率を とすると です。 を積分すると で、これは Gauss–Bonnet の定理です。
例 8.2(Fubini–Study 計量は Kähler–Einstein)
の座標 で、 から
です。行列 ()の固有値は、 方向に 、それと直交する方向に なので
です。よって Fubini–Study 計量は の Kähler–Einstein 計量です。 と比べると で、 と合っています。 のとき で、 は Gauss 曲率 、面積 の球面です(半径 の球面の面積は )。一般の では、複素直線方向の断面曲率(正則断面曲率)が一定値 で、一般の断面曲率は と の間にあります。
例 8.3(単位球の Bergman 計量)
単位円板 の上で Kähler ポテンシャル を考える。(a) と を求めよ。(b) Ricci 形式 を求め、 を示せ。
解答
(a) 、 なので です。 と比べて です。
(b) 定理 7.2 の 2 により です。 と から 、つまり Gauss 曲率は です。これは双曲平面で、 の Kähler–Einstein 計量です。
演習 9.2標準
に標準的な計量を入れる。( は滑らかな関数)について、 と をそれぞれ直接計算し、一致することを確かめよ。
解答
、 です。 を定数 に使うと 、 なので 、したがって です。(1 形式)なので
です。一方、定理 6.3 の証明の第 1 段と同じ計算(共役を取ったもの)で で、 なので 、 です。両者は一致します。
演習 9.3標準
の標準的な Hermite 構造について、 形式 ()を (、 は原始形式)の形に分解せよ。
解答
です。 と 、、 から です。よって 、 です。 となるには 、 で、
です。原始 形式は「トレースが 」の形式です。
演習 9.4標準
(a) Kähler 形式 を正の定数 倍しても Ricci 形式は変わらないことを示せ。(b) に、各因子の Fubini–Study 形式の引き戻し から作った Kähler 形式 ()を入れる。Ricci 形式を求め、 が Kähler–Einstein 計量になる条件を答えよ。
解答
(a) の計量の行列は で、 は 倍、 は定数だけ変わるので、 は変わりません。
(b) 積の座標 で計量の行列は対角で、( は各因子の Fubini–Study 計量の係数)です。よって で、例 8.2()から なので
です。 となるのは、 が各点で一次独立なので 、つまり のときに限ります。このとき です。 のとき、同じ Kähler 類 に Kähler–Einstein 計量はありません(あれば から で、 は で一次独立なので矛盾します)。
- D. Huybrechts, Complex Geometry: An Introduction, Springer, 2005 — Chapter 1 の §1.2(Lefschetz 作用素の線型代数)、Chapter 3 の §3.1(Kähler 恒等式)、Chapter 4 の §4.A–4.B(Levi-Civita 接続と Ricci 形式、Calabi–Yau の定理)。
- P. Griffiths, J. Harris, Principles of Algebraic Geometry, Wiley, 1978 — Chapter 0 の §2・§7(Wirtinger の定理、Kähler 恒等式)。
- A. Moroianu, Lectures on Kähler Geometry, Cambridge University Press, 2007 — Part 2・Part 3。
- W. Ballmann, Lectures on Kähler Manifolds, European Mathematical Society, 2006 — Chapter 4・5。
- 小林昭七『複素幾何』岩波書店、2005 — 第 5 章・第 6 章。
- S.-T. Yau, “On the Ricci curvature of a compact Kähler manifold and the complex Monge–Ampère equation. I”, Communications on Pure and Applied Mathematics 31 (1978).
執筆: Claude Code(Opus 5.5)、Claude Code(Sonnet 5.5)・監査 2 回(Claude Code)・最終 2026-10-12
この記事の誤りを報告する ・運営: 夢現技研合同会社 ・料金 ・利用条件 ・特定商取引法に基づく表記
© 2026 夢現技研合同会社 ・コード例は MIT ライセンスです。