原子に光を当てると、電子が別のエネルギー状態へ移ることがあります。外から加える力が時間とともに変わるとき、量子の状態はどう動くのでしょうか。この記事は、その問いに答える道具を一式そろえます。力が弱ければ「少しずつ補正を足す」計算で、力がゆっくり変わるなら「状態はほぼそのままついていく」という見方で、状態の動きを追えるようになります。
- ハミルトニアンが時間に依存するとき、状態の時間発展は時間発展演算子 U(t,t0) で与えられます。H=H0+V(t) と分け、H0 の自由な回転を取り除いた「相互作用描像」で見ると、V だけが効く方程式になります。
- その方程式の解は Dyson 級数 UI=1+∑n(−i/ℏ)n∫⋯∫VI⋯VI です。VI が有界なら項は (M∣t−t0∣/ℏ)n/n! で抑えられ、級数は必ずノルム収束します(作用素の「大きさ」で測って、和が一つの作用素に近づくということです)。
- 二準位系に回転磁場(光)を当てる問題は回転座標系で定数係数になり、厳密に解けます。上準位への遷移確率は Ω2+δ2Ω2sin22Ω2+δ2t という Rabi の公式です。
- 摂動が弱く終状態が連続スペクトルなら、遷移確率は時間に比例して増え、遷移率は ℏ2π∣Vfi∣2ρ(Fermi の黄金律)で与えられます。
- ハミルトニアンをゆっくり変えると、準位に重なりがない(ギャップがある)限り状態は瞬間固有状態(そのときどきのハミルトニアンの固有状態)に留まります(断熱定理)。経路を一周したあとの位相には、動的な位相のほかに、経路の幾何だけで決まる Berry 位相が残ります。
量子力学の 7 章で、状態・演算子・交換関係、1 次元の系、水素原子、角運動量とスピン、時間に依存しない摂動論までを一通り扱いました。そこで得た道具は、孤立した系の定常状態を調べるためのものです。エネルギー準位を求め、準位間隔からスペクトル線を説明する。これが前編(量子力学)の仕事でした。
しかし、実験室で起きることの多くは定常状態の外にあります。原子に光を当てると準位間を遷移します。粒子を標的に撃ち込むと散乱されます。2 個の電子を持つ原子では、電子を区別できないという事実が波動関数の形を縛ります。原子を磁場に入れると準位が分裂し、電子を相対論的に扱うと自然にスピンが現れます。量子力学 II は、これらをこの順に扱う 6 章です。
| 章 | 主題 | 中心になる結果 |
|---|
| 1(この記事) | 時間発展と時間依存摂動論 | Dyson 級数、Rabi 振動、Fermi の黄金律、断熱定理 |
| 2 | 散乱理論 | Lippmann–Schwinger 方程式、部分波展開、光学定理、Breit–Wigner |
| 3 | 同種粒子と多電子原子 | Slater 行列式、ヘリウム、Hartree–Fock 方程式 |
| 4 | 電磁場中の荷電粒子 | 最小結合、Landau 準位、Aharonov–Bohm 効果、Wigner–Eckart の定理、微細構造 |
| 5 | 密度行列とエンタングルメント | 部分トレース、POVM、Bell–CHSH 不等式、Lindblad 方程式 |
| 6 | 相対論的量子力学 | Klein–Gordon 方程式、Dirac 方程式、水素原子の Dirac 解 |
第 1 章は、残りの章すべての土台になる時間発展の扱いを用意します。第 2 章の散乱は「長時間の遷移」、第 4 章の Zeeman 効果や Stark 効果は摂動、第 5 章の Lindblad 方程式は時間発展の開放系版です。記法は前編に合わせ、ℏ を明示し、状態は ∣ψ⟩、演算子の行列要素は Vfi=⟨f∣V∣i⟩ と書きます。
この章の問いは単純です。ハミルトニアンが時間に依存するとき、状態はどう動くのか。 厳密に解ける場合は少数ですが、H=H0+V(t) と分けて V を小さく扱えば、体系的な近似が作れます。
この章では、数学的な細部で本質を見失わないよう、H(t) は有限次元ヒルベルト空間上のエルミート行列、またはノルムの意味で連続な有界自己共役作用素とします。非有界なハミルトニアン(p2/2m など)では、定義域の議論が必要になります。この記事の計算は形式的にはそのまま使えますが、証明は有界の場合に限ります。
定義 2.1(時間発展演算子)↗
H(t) を時刻 t について連続なエルミート作用素の族とする。作用素値の方程式
iℏ∂t∂U(t,t0)=H(t)U(t,t0),U(t0,t0)=1の解 U(t,t0) を 時間発展演算子 と呼ぶ。H が時間に依存しないときは U(t,t0)=e−iH(t−t0)/ℏ である。
解の存在と一意性は次の節の 定理 3.1 で示します。これを先に使うと、シュレーディンガー方程式 (時間依存)(定義 3.1)[シュレーディンガー方程式と波動関数] iℏ∂t∣ψ(t)⟩=H(t)∣ψ(t)⟩ の解は ∣ψ(t)⟩=U(t,t0)∣ψ(t0)⟩ と書けます。
命題 2.2(ユニタリ性と合成則)✓
U(t,t0) はユニタリであり、U(t2,t1)U(t1,t0)=U(t2,t0) を満たす。
証明(命題 2.2)
方程式の随伴を取ると −iℏ∂tU†=U†H です(H はエルミート)。積の微分で
dtd(U†U)=ℏiU†HU−ℏiU†HU=0となり、U†U は t によらず、t=t0 での値 1 に等しい。有限次元では U†U=1 から UU†=1 も従います。無限次元でも、同じ計算を UU† に行い、∂tU−1 が存在することから同様に示せます。合成則は、t の関数 W(t)=U(t,t1)U(t1,t0) と U(t,t0) がどちらも同じ方程式と時刻 t1 での同じ初期値 U(t1,t0) を満たすことから、解の一意性(定理 3.1)により一致します。
∎
ユニタリ性は、確率の保存 ⟨ψ(t)∣ψ(t)⟩=⟨ψ(t0)∣ψ(t0)⟩ そのものです。
状態を動かす代わりに演算子を動かす見方があります。
定義 2.3(Heisenberg 描像)↗
物理量 A(時間にあらわに依存してよい)の Heisenberg 描像 での演算子を
AH(t)=U(t,t0)†AU(t,t0) と定める。状態は ∣ψ⟩H=∣ψ(t0)⟩ に固定する。
期待値は ⟨ψ(t)∣A∣ψ(t)⟩=⟨ψ(t0)∣AH(t)∣ψ(t0)⟩ となり、どちらの描像でも同じです。AH の運動方程式は、∂tU=−(i/ℏ)HU と ∂tU†=(i/ℏ)U†H から
dtdAH=ℏiU†[H,A]U+U†∂t∂AU
です。H が時間に依存せず A もあらわには依存しないなら、U は H と交換するので dtdAH=ℏi[H,AH] と書けます。これが Heisenberg の運動方程式で、Ehrenfest の定理(定理 5.5)[シュレーディンガー方程式と波動関数] を演算子の等式に格上げしたものです。古典力学の Poisson 括弧による時間発展(命題 8.2[ハミルトン形式の力学])で {⋅,⋅} を iℏ1[⋅,⋅] に置き換えた形になっています。
H(t)=H0+V(t) とし、H0 は時間に依存せず厳密に解けるとします。U0(t)=e−iH0(t−t0)/ℏ と置いて、自由な回転だけを取り除いた 見方を作ります。H0 だけなら、各固有状態の成分は位相を速く回すだけで、その大きさ(確率)は何も変わりません。その回転を先に差し引いておけば、残る動きは V が起こす変化だけになります。回る時計に乗って眺めると、時計が回る分は見えなくなる、というイメージです。
定義 2.4(相互作用描像)↗
状態と演算子を
∣ψI(t)⟩=U0(t)†∣ψ(t)⟩,AI(t)=U0(t)†AU0(t)で定める。とくに摂動は VI(t)=U0(t)†V(t)U0(t) となる。相互作用描像の時間発展演算子を UI(t,t0)=U0(t)†U(t,t0) と書く。
命題 2.5(相互作用描像の運動方程式)✓
∣ψI(t)⟩ と UI(t,t0) は
iℏ∂t∂∣ψI(t)⟩=VI(t)∣ψI(t)⟩,iℏ∂t∂UI(t,t0)=VI(t)UI(t,t0),UI(t0,t0)=1を満たす。
証明(命題 2.5)
∂tU0†=(i/ℏ)H0U0† なので、UI=U0†U の積の微分で
iℏ∂tUI=iℏℏiH0U0†U+U0†(H0+V)U=−H0UI+U0†H0U+U0†VUです。U0† は H0 と交換するので U0†H0U=H0U0†U=H0UI となり、最初の 2 項が打ち消し合います。残りは U0†VU=(U0†VU0)(U0†U)=VIUI です。状態についても ∣ψI⟩=UI∣ψ(t0)⟩ から同じ式が出ます。
∎
主な利点は、H0 が引き起こす速い位相回転が消え、VI だけが状態を動かすことです。V が小さければ ∣ψI⟩ はゆっくりしか動きません。そこで VI について逐次近似を組み立てます。
定理 3.1(Dyson 級数)✓
VI(t) は区間 [t0,t1] で連続な作用素値関数で、∥VI(t)∥≤M とする。このとき方程式 iℏ∂tUI=VIUI、UI(t0,t0)=1 は [t0,t1] 上でただ 1 つの解を持ち、それは次の級数で与えられる。
UI(t,t0)=1+n=1∑∞(ℏ−i)n∫t0tdt1′∫t0t1′dt2′⋯∫t0tn−1′dtn′VI(t1′)VI(t2′)⋯VI(tn′)級数は作用素ノルムで絶対収束し、第 n 項のノルムは n!1(ℏM(t−t0))n 以下である。
積分の順序は t1′>t2′>⋯>tn′ で、新しい時刻の VI が左に来る 並びになっています(これを時間順序積と呼びます)。VI どうしは一般に交換しないので、この順序は本質的です。たとえば 2 重積分の項では t1′>t2′ の範囲だけを積分し、積は VI(t1′)VI(t2′)、つまり後の時刻の VI を左に書きます。状態に作用する順番は右から左なので、「先に起きたことが右、後に起きたことが左」と読めば覚えやすくなります。
証明(定理 3.1)
方程式を積分形 UI(t)=1+ℏ−i∫t0tVI(t′)UI(t′)dt′ に書き換えます。両辺の微分がもとの方程式で、初期条件も満たされているため、2 つは同値です。
存在。 U(0)=1、U(n)(t)=ℏ−i∫t0tVI(t′)U(n−1)(t′)dt′ と逐次に定めます。帰納法で ∥U(n)(t)∥≤n!1(ℏM(t−t0))n が示せます。実際、n−1 で成り立つとして
∥U(n)(t)∥≤ℏM∫t0t(n−1)!1(ℏM(t′−t0))n−1dt′=n!1(ℏM(t−t0))nです。右辺は指数級数の項なので ∑nU(n) はノルムで一様収束し、和を UI とすると、極限と積分の交換により積分形の方程式を満たします。U(n) を展開すれば主張の n 重積分の形になります。
一意性。 2 つの解の差 D は D(t)=ℏ−i∫t0tVIDdt′ を満たします。S=sup[t0,t1]∥D∥ とすると、同じ帰納法で ∥D(t)∥≤Sn!1(ℏM(t−t0))n が任意の n で成り立ち、n→∞ で D=0 です。
∎
一般の U(t,t0) も同じ論法で存在が示せます(H(t) が有界連続なら、VI の代わりに H を使って同じ手順を踏むだけです)。これで 定義 2.1 の解の存在と、命題 2.2 の一意性の根拠が揃いました。
最初の数項を書き下しておきます。
UI(t,t0)≃1−ℏi∫t0tVI(t1)dt1−ℏ21∫t0tdt1∫t0t1dt2VI(t1)VI(t2)+⋯
n 次の項は「摂動が n 回起きる」過程に対応します。VI が V の H0 による回転で、行列要素では ⟨f∣VI(t)∣i⟩=eiωfi(t−t0)Vfi(t)(ℏωfi=Ef−Ei)となる点が、以後の計算の要です。
Dyson 級数が収束するといっても、級数を打ち切った近似は V が小さいときにしか役に立ちません。そこで、摂動が小さくなくても厳密に解ける例を調べておきます。これは、原子・スピン・量子ビットを光(電磁波)で駆動する基本模型です。
二準位系の基底を ∣↑⟩(励起状態、エネルギー +ℏω0/2)、∣↓⟩(基底状態、−ℏω0/2)とし、σz などはスピン 1/2 の(定義 5.1)[角運動量とスピン]パウリ行列です。振動数 ω の回転する場による相互作用を
H(t)=2ℏω0σz+2ℏΩ(e−iωtσ++eiωtσ−),σ+=∣↑⟩⟨↓∣, σ−=∣↓⟩⟨↑∣
とします。Ω>0 は結合の強さを表す Rabi 周波数、δ=ω−ω0 は 離調 です。行列では H(t)=2ℏ(ω0ΩeiωtΩe−iωt−ω0) です。
定理 4.1(Rabi の公式)✓
t=0 に ∣↓⟩ にあった系が、時刻 t に ∣↑⟩ に見出される確率は
P↑(t)=Ω2+δ2Ω2sin2(2Ω2+δ2t)である。
証明の方針は、場と同じ速さで回る座標系に乗り換えることです。その座標系では、時間に依存していた H(t) が時間によらない行列に変わります。時間によらない行列の指数関数は具体的に書けるので、状態が厳密に求まります。
証明(定理 4.1)
回転座標系へ。 ∣ψ(t)⟩=e−iωtσz/2∣φ(t)⟩ と置きます。σzσ+=σ+、σ+σz=−σ+ より eiθσz/2σ+e−iθσz/2=eiθσ+(σ− は e−iθ 倍)です。∣ψ⟩ をシュレーディンガー方程式に入れると
iℏ∂t∣φ⟩=[eiωtσz/2H(t)e−iωtσz/2−2ℏωσz]∣φ⟩であり、括弧の中で e∓iωt と e±iωt が打ち消し合って時間に依存しなくなります。
Hrot=2ℏ(−δσz+Ωσx)=2ℏWn⋅σ,W=Ω2+δ2,n=W(Ω,0,−δ)時間発展。 命題 5.2[角運動量とスピン] より (n⋅σ)2=1 なので、指数関数は
e−iHrott/ℏ=cos2Wt−i(n⋅σ)sin2Wtです。初期状態 ∣φ(0)⟩=∣ψ(0)⟩=∣↓⟩ に作用させ、⟨↑∣n⋅σ∣↓⟩=nx−iny=Ω/W(⟨↑∣σz∣↓⟩=0)を使うと
⟨↑∣φ(t)⟩=−iWΩsin2Wtです。回転 e−iωtσz/2 は ∣↑⟩ の成分に位相しか掛けないので、∣⟨↑∣ψ(t)⟩∣2=∣⟨↑∣φ(t)⟩∣2 となり、主張を得ます。
∎
Rabi 振動。横軸は時間 Ωt、縦軸は上準位にいる確率。共鳴(δ=0)では確率が 1 まで振れ、離調があると振幅が Ω²/(Ω²+δ²) に下がって振動が速くなる
例 4.2(π パルスと量子ビットの反転)
共鳴(δ=0)では P↑=sin2(Ωt/2) です。Ωt=π の時間だけ場を当てると P↑=1 となり、∣↓⟩ が完全に ∣↑⟩ に反転します。これを π パルス と呼びます。Ωt=π/2 なら P↑=1/2 で、等しい重ね合わせ状態ができます(π/2 パルス)。たとえば Ω/2π=1 MHz なら π パルスの長さは t=π/Ω=0.5 μs です。離調があると、反転は完全にはならず、確率は最大でも Ω2/(Ω2+δ2) にとどまります。この共鳴曲線の幅(∣δ∣≲Ω)が、共鳴の選択性を決めています。
終状態が離散的な 2 準位であれば、遷移確率は Rabi 振動のように振動します。ところが終状態が連続的に分布していると(自由粒子、光子の放出、イオン化)、確率は 時間に比例して増え続け、単位時間あたりの遷移率が定義できるようになります。
H=H0+V(t)、H0∣n⟩=En∣n⟩ とし、t=0 に固有状態 ∣i⟩ にあった系が時刻 t に ∣f⟩(f=i)に見出される確率を Pi→f(t) とします。∣⟨f∣ψ(t)⟩∣=∣⟨f∣U0∣ψI(t)⟩∣=∣⟨f∣ψI(t)⟩∣ なので、Pi→f(t)=∣⟨f∣UI(t,0)∣i⟩∣2 です。定理 3.1 の 1 次の項だけを取ると、次の結果になります。
命題 5.1(1 次の遷移確率)✓
V(t) の行列要素 Vfi(t)=⟨f∣V(t)∣i⟩ について、ωfi=(Ef−Ei)/ℏ とすると
Pi→f(t)=ℏ21∫0tVfi(t′)eiωfit′dt′2+O(V3)が成り立つ。ここで O(V3) は ∥V∥ の 3 乗の程度の誤差を表す。
証明(命題 5.1)
定理 3.1 より ⟨f∣UI∣i⟩=⟨f∣i⟩−ℏi∫0t⟨f∣VI(t′)∣i⟩dt′+R2 で、⟨f∣i⟩=0 です。⟨f∣VI(t′)∣i⟩=eiωfit′Vfi(t′) を代入すると、1 次の項 B1 は主張の被積分関数になります。剰余 R2 のノルムは 定理 3.1 の評価から O(V2) なので、確率では ∣B1+R2∣2=∣B1∣2+O(V3) です。
∎
例 5.2(一定の摂動を入れた場合)
V(t)=V(t≥0 で一定)とすると、∫0teiωfit′dt′=iωfieiωfit−1 なので
Pi→f(t)=ℏ2∣Vfi∣2(ωfi/2)2sin2(ωfit/2)≡ℏ2∣Vfi∣2Kt(ωfi)です。ωfi=0 の近傍で Kt→t2(時間の 2 乗で成長)、それ以外では有界に振動します。幅 ∼2π/t、高さ t2 の鋭いピークが、時間とともに ωfi=0 に向けて集まっていきます。
時間 t を増やしたときに Kt がどう変わるかを、面積 2πt で割って(面積を 1 にそろえて)動かして見ます。ピークが高く細くなり、原点に集まっていきます。
核関数 Kt(ωfi)/(2πt) の時間変化(t=1 から 20)。面積は常に 1 のまま、高さ t/(2π) のピークが原点に集まる
核心は、このピークの面積が t に比例する、という事実です。ピークの高さは t2、幅は 1/t のオーダーなので、面積は高さと幅の積でおよそ t になります。次の補題はこの見積りを正確な等式にし、時間が経つほど Kt が原点に集中した山(デルタ関数)のように振る舞うことを述べます。
補題 5.3(遷移の核関数)✓
Kt(ω)=(ω/2)2sin2(ωt/2) について ∫−∞∞Kt(ω)dω=2πt であり、有界連続な関数 g に対して
t→∞lim2πt1∫−∞∞g(ω)Kt(ω)dω=g(0)が成り立つ。
証明(補題 5.3)
ω=2u/t と置くと、Kt(ω)=t2u2sin2u、dω=t2du です。よって
2πt1∫g(ω)Kt(ω)dω=π1∫−∞∞g(t2u)u2sin2uduです。g≡1 のときは ∫−∞∞u2sin2udu=π です。実際、f=1[−1,1] の Fourier 変換は f^(u)=∫−11e−iuxdx=u2sinu で、Plancherel の定理(定理 4.1[ℝⁿ 上のフーリエ変換] の 1、∥f^∥22=2π∥f∥22)から ∫u24sin2udu=2π⋅2 です。したがって前半の主張 ∫Kt=2πt を得ます。後半は、被積分関数が ∥g∥∞sin2u/u2(可積分)で抑えられ、各点で g(2u/t)→g(0) なので、優収束定理により極限は g(0)⋅π1⋅π=g(0) です。
∎
この補題は、Kt(ω)/2πt→δ(ω) と読めます。
定理 5.4(Fermi の黄金律)✓
V は時間に依存しない摂動とする。終状態は連続なエネルギー E でラベルされ、ρ(E) を状態数の密度(単位エネルギーあたりの状態数)とする。関数 g(ω)=ρ(Ei+ℏω)∣Vfi∣2 が有界連続(かつ可積分的に減衰し、和が ∫ で近似できる)ならば、1 次の遷移確率を終状態について足し合わせた Pi→cont(t) は
t→∞limtPi→cont(t)=Γ,Γ=ℏ2π∣Vfi∣2ρ(Ef)Ef=Eiを満たす。Γ を 遷移率 と呼ぶ。
証明(定理 5.4)
V が一定なら ∫0teiωt′dt′=iωeiωt−1 で、∣eiωt−1∣2=4sin2(ωt/2) なので、命題 5.1 から 1 次の遷移確率は Pi→f(t)=ℏ2∣Vfi∣2Kt(ωfi)(Kt は 補題 5.3 の関数)です。これを終状態について足し、∑f→∫ρ(E)dE とします。E=Ei+ℏω と置いて dE=ℏdω とすると、
Pi→cont(t)=∫ρ(E)ℏ2∣Vfi∣2Kt(ℏE−Ei)dE=ℏ1∫g(ω)Kt(ω)dωです。補題 5.3 により 2πt1∫gKtdω→g(0) なので、Pi→cont(t)/t→ℏ2πg(0)=ℏ2π∣Vfi∣2ρ(Ei) です。
∎
適用範囲に注意が要ります。ピークの幅 2π/t が、∣Vfi∣2ρ が変化するエネルギー幅よりも十分狭くなるには t が大きい必要があります(t≫ℏ/ΔE)。一方、Γt≪1 でなければ 1 次の近似自体が破綻します。つまり黄金律は ℏ/ΔE≪t≪1/Γ の中間の時間で成り立つ、と覚えておきます。
例 5.5(黄金律から Born 近似を導く)
体積 L3 の箱の中の自由粒子(質量 m)が、短距離ポテンシャル V(r) によって平面波 ∣k⟩=eik⋅r/L3/2 から ∣k′⟩ へ散乱される過程を考えます。行列要素は Vk′k=V~(q)/L3、q=k′−k、V~(q)=∫e−iq⋅rV(r)d3r です。立体角 dΩ の中の終状態の密度は、波数空間で (L/2π)3k2dkdΩ と E=ℏ2k2/2m から ρdΩ=(L/2π)3(mk/ℏ2)dΩ です。入射流束は(速さ)/(体積)=ℏk/(mL3) なので、黄金律の遷移率を入射流束で割った微分断面積は
dΩdσ=ℏ2πL6∣V~(q)∣2(2πL)3ℏ2mk⋅ℏkmL3=(2πℏ2m)2V~(q)2です。箱の大きさ L は消えました。これは 散乱理論で定常的に導く Born 近似と同じものです。
最後に、摂動が小さいのではなく ゆっくり 変化する場合を考えます。パラメータを時間 T をかけて動かすとき、T→∞ の極限で何が起きるでしょうか。
s=t/T∈[0,1] を導入し、N 次元のエルミート行列の族 H(s) を考えます。これが s について無限回微分可能で、すべての s で N 個の固有値 E1(s)<⋯<EN(s) がすべて単純(縮退なし)とし、隣り合う固有値の最小間隔を g>0 とします。固有値が単純で孤立していることから、固有値 En(s) と、その固有射影 Pn(s) は s について滑らかです(リース射影 Pn=2πi1∮(z−H)−1dz の積分路を局所的に固定できるため)。シュレーディンガー方程式は
Tiℏdsd∣ψ(s)⟩=H(s)∣ψ(s)⟩
です。固有ベクトルは位相の自由度(eiχ 倍)を持つので、s を動かしても途切れないように位相を選ぶ必要があります。次の補題は、位相が「余計に回らない」ように動かしていく選び方を与え、あとの証明で ⟨n∣n′⟩=0 が使えるようにします。次の選び方が便利です。
補題 6.1(平行移動の位相の選び方)✓
P=Pn(s) とし、A(s)=[P′(s),P(s)] を係数とする方程式 UK′(s)=A(s)UK(s)、UK(0)=1 の解 UK(s) はユニタリで、P(s)UK(s)=UK(s)P(0) を満たす。したがって ∣n(s)⟩:=UK(s)∣n(0)⟩(∣n(0)⟩ は En(0) の固有ベクトル)は H(s)∣n(s)⟩=En(s)∣n(s)⟩ を満たす滑らかな規格化ベクトルであり、
⟨n(s)∣n′(s)⟩=0 が成り立つ。
証明(補題 6.1)
A†=[P,P′]=−A(P,P′ はエルミート)なので、UK はユニタリです((UK†UK)′=UK†(A†+A)UK=0)。P2=P を微分して P′P+PP′=P′ を得て、これに左右から P を掛けると PP′P=0 です。したがって
[A,P]=(P′P−PP′)P−P(P′P−PP′)=P′P−PP′P−PP′P+PP′=P′です。一方、Q(s)=UK(s)P(0)UK(s)−1 は Q′=AQ−QA=[A,Q]、Q(0)=P(0) を満たし、P(s) も P′=[A,P] と同じ初期値を満たします。線形方程式 X′=[A,X] の解は一意なので Q=P で、前半の主張を得ます。∣n(s)⟩=UK∣n(0)⟩ は P(s) の像に入り、H(s) の固有ベクトルになります。最後に ∣n′⟩=A∣n⟩=P′∣n⟩−PP′∣n⟩(P∣n⟩=∣n⟩ を使った)で、⟨n∣n′⟩=⟨n∣P′∣n⟩−⟨n∣P′∣n⟩=0 です。
∎
各 n について ∣n(s)⟩ を構成すると、相異なる固有値の固有ベクトルは直交するので、各 s で正規直交基底 {∣n(s)⟩} が得られます。H∣k⟩=Ek∣k⟩ を s で微分して ⟨m∣ をかけると、m=k について
⟨m∣k′⟩=Ek−Em⟨m∣H′∣k⟩(m=k)
が従います(⟨m∣H∣k′⟩=Em⟨m∣k′⟩ を使う)。
定理 6.2(断熱定理)✓
上の設定で、∣ψ(0)⟩=∣n(0)⟩ から出発した解 ∣ψ(s)⟩ について、T によらない定数 C があって
∣ψ(1)⟩−e−iθn(T)∣n(1)⟩≤TC,θn(T)=ℏT∫01En(s)dsが成り立つ。すなわち、状態は n 番目の瞬間固有状態に(動的な位相 θn を除いて)O(1/T) の精度で留まる。ここで ∣n(1)⟩=UK(1)∣n(0)⟩ である。
証明の方針を先に述べます。他の準位への漏れ出しの大きさ am は、速く振動する因子 eiTϕ を含む積分で書けます。振動が速いと正負が打ち消し合うので、部分積分で 1/T の因子が出ます。このとき、準位の間隔が開いている(ギャップ g>0)ことで、振動の速さが 0 にならず、部分積分が使えます。
証明(定理 6.2)
Θk(s)=ℏ1∫0sEk とし、解を ∣ψ(s)⟩=∑kak(s)e−iTΘk(s)∣k(s)⟩ と展開します。ユニタリ性から ∑k∣ak∣2=1 で、とくに ∣ak∣≤1 です。方程式に入れると、ℏΘk′=Ek により Ek の項が両辺で打ち消し合い、
k∑(ak′∣k⟩+ak∣k′⟩)e−iTΘk=0が残ります。⟨m∣ をかけ、⟨m∣m′⟩=0(補題 6.1)を使うと
am′(s)=−k=m∑ak(s)cmk(s)eiT(Θm−Θk)(s),cmk=⟨m∣k′⟩=Ek−Em⟨m∣H′∣k⟩です。cmk は滑らかで、[0,1] 上で有界、導関数も有界です。右辺で ∣ak∣≤1 だから ∣am′∣≤C1(T によらない)で、am も am′ も T に無関係な定数で抑えられます。
m=n について am(0)=0 から am(1)=−∑k=m∫01hkeiTϕkds、ただし hk=akcmk、ϕk=Θm−Θk とします。ϕk′=(Em−Ek)/ℏ の絶対値は g/ℏ 以上で、符号を変えません。部分積分で
∫01hkeiTϕkds=[iTϕk′hkeiTϕk]01−iT1∫01(ϕk′hk)′eiTϕkdsとなり、右辺は hk,hk′,ϕk′−1,ϕk′′ が T に依らず有界なので O(1/T) です。m=n も同様で、an(0)=1 から ∣an(1)−1∣=O(1/T) を得ます。したがって
∣ψ(1)⟩−e−iTΘn(1)∣n(1)⟩≤∣an(1)−1∣+m=n∑∣am(1)∣≤TCです(θn(T)=TΘn(1))。
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仮定のうち、ギャップ g>0 が決定的です。ギャップが閉じる点(準位の交差)では ϕk′ が 0 になり、部分積分が破綻して、状態は他の準位へ漏れます。
H(1)=H(0) となるように、パラメータを閉じた道に沿って動かします。∣n(1)⟩=UK(1)∣n(0)⟩ は Pn(1)=Pn(0) の像に入るので、∣n(1)⟩=eiγn∣n(0)⟩ と書け、位相 γn は実数です。
定義 6.3(Berry 位相)↗
上の γn(2π の整数倍を除いて定まる)を、閉じた道に沿った n 番目の固有状態の Berry 位相 と呼ぶ。
証明(命題 6.4)
∣n~(s)⟩=eiχ(s)∣n(s)⟩(χ は滑らか)と書けます。補題 6.1 の ⟨n∣n′⟩=0 より ⟨n~∣n~′⟩=iχ′ で、⟨n~∣n~⟩=1 の微分から実部が 0 という事実とも整合します。右辺は i∫01(iχ′)ds=−(χ(1)−χ(0)) です。一方、閉じた条件 eiχ(1)∣n(1)⟩=eiχ(0)∣n(0)⟩ に ∣n(1)⟩=eiγn∣n(0)⟩ を入れると χ(1)+γn≡χ(0) で、γn≡χ(0)−χ(1) です。
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定理 6.5(断熱周回後の位相)✓
定理 6.2 の設定で H(1)=H(0) とすると、T→∞ で ∣ψ(T)⟩ は e−iθn(T)eiγn∣n(0)⟩ に(O(1/T) のノルムで)近づく。つまり位相は動的位相 θn(T)(T に比例して増える)と Berry 位相 γn(T によらない)の和である。
証明(定理 6.5)
定理 6.2 に ∣n(1)⟩=eiγn∣n(0)⟩ を代入するだけです。
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例 6.6(回る磁場の中のスピン 1/2)
H(s)=2ℏω0n(s)⋅σ、n(s)=(sinθcosφ, sinθsinφ, cosθ)、φ=2πs(磁場の向きが円錐上を 1 周)とします。エネルギー +ℏω0/2 の固有ベクトルは
∣+;n⟩=(cos(θ/2)eiφsin(θ/2))です(n⋅σ=(cosθsinθeiφsinθe−iφ−cosθ) を掛けて確かめる)。φ→φ+2π で元に戻るので、命題 6.4 がそのまま使えます。⟨+∣∂φ+⟩=isin2(θ/2) より
γ+=i∫02πisin22θdφ=−2πsin22θ=−π(1−cosθ)=−2Ωsolで、Ωsol=2π(1−cosθ) は円錐が単位球面上に切り取る立体角です。エネルギー −ℏω0/2 の状態では γ−=+Ωsol/2 です。位相は磁場がたどる道の 立体角だけで決まり、回る速さ T にも ω0 にも依りません。θ=π/2(赤道)では γ+=−π で、状態が −1 倍になります。
演習 7.1易
共鳴する光 δ=0 で Ω/2π=5 kHz のとき、原子を基底状態から励起状態へ完全に移す π パルスの長さを求めよ。また同じ長さのパルスを離調 δ=Ω で当てると、励起状態にいる確率はいくらか。
解答
Ω=2π×5×103 s−1、π パルスは Ωt=π より t=π/Ω=1/(2×5×103)=1.0×10−4 s(100 μs)です。離調 δ=Ω では W=2Ω、Ω2/W2=1/2 なので、定理 4.1 より P↑=21sin2(22π)=21sin2(2.221)。sin(2.221)=0.7955 から P↑≃0.316 です。離調によって、共鳴時の完全反転は実現できなくなります。
演習 7.2標準
H0 の固有状態 ∣i⟩ に、V(t)=V0e−t2/τ2(V0 は t に依存しない演算子、−∞<t<∞)という摂動を加える。t→∞ における ∣f⟩(f=i)への 1 次の遷移確率を求めよ。ωfiτ≫1 のとき確率はどうなるか。
解答
命題 5.1 で積分範囲を (−∞,∞) にして、ガウス積分 ∫−∞∞e−t2/τ2eiωtdt=πτe−ω2τ2/4 を使います。
Pi→f=ℏ2∣⟨f∣V0∣i⟩∣2πτ2e−ωfi2τ2/2です。ωfiτ≫1 では指数関数的に小さくなります。摂動が準位間隔 ℏωfi に比べてゆっくり動く(τ≫1/ωfi)と、遷移がほとんど起きない、という断熱性の最初の現れです。
演習 7.3標準
例 6.6 で磁場が円錐の半頂角 θ を一定にして 1 周するとき、動的位相と Berry 位相をあわせた断熱周回後の位相(∣+⟩ について)を、周期 T の関数として求めよ。θ→0 の極限で何が起きるか。
解答
動的位相は −θ+(T)、θ+(T)=ℏT⋅2ℏω0=2ω0T です。Berry 位相は γ+=−π(1−cosθ) です。定理 6.5 により、周回後の状態は exp[−2iω0T−iπ(1−cosθ)]∣+;n(0)⟩ に近づきます。θ→0 では磁場の向きがほとんど動かない(道が 1 点につぶれる)ので γ+→0 となり、動的位相だけが残ります。これは立体角が 0 になる事実と整合しています。
- J. J. Sakurai, J. Napolitano, Modern Quantum Mechanics, 3rd ed., Cambridge University Press, 2020 — 時間発展と描像、時間依存摂動論(Dyson 級数、黄金律)の章。
- D. J. Griffiths, D. F. Schroeter, Introduction to Quantum Mechanics, 3rd ed., Cambridge University Press, 2018 — 時間依存摂動論、断熱近似の章。
- F. J. Dyson, “The Radiation Theories of Tomonaga, Schwinger, and Feynman”, Phys. Rev. 75 (1949), 486. 時間順序積による展開の原典。
- I. I. Rabi, “Space Quantization in a Gyrating Magnetic Field”, Phys. Rev. 51 (1937), 652. Rabi の公式の原典。
- T. Kato, “On the Adiabatic Theorem of Quantum Mechanics”, J. Phys. Soc. Japan 5 (1950), 435. 断熱定理の数学的証明。
- M. V. Berry, “Quantal Phase Factors Accompanying Adiabatic Changes”, Proc. R. Soc. Lond. A 392 (1984), 45.
執筆: Claude Code(Sonnet 5.5)、Claude Code(Opus 5.5)・監査 3 回(Claude Code)・最終 2026-10-12