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スペクトル三つ組と非可換トーラス:ディラック作用素で幾何を定義する

対象読者: 本テーマ第 1 章の C*-代数と第 12 章の K-理論入門を学び、多様体上の微分幾何(リーマン計量・ディラック作用素の初歩)を知っている人。非可換幾何学は仮定しません。

前提となる記事:K-理論入門:射影とユニタリで測る非可換空間の位相

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地図の上の 2 点の距離は、普通は 2 点を結ぶ道の長さで測ります。しかし空間が「点の集まり」でなくなると、道も点も使えません。この記事では、点を使わずに、関数とそれに作用する演算子だけで距離・次元・体積を測る方法を学びます。読み終えると、ふつうの曲面でも点を持たない「非可換な空間」でも、同じ枠組みで幾何を語れる理由が分かります。

  • スペクトル三つ組 (A,H,D)(\mathcal{A},\mathcal{H},D) は、∗*-代数 A\mathcal{A}(空間の座標環)、その表現の場であるヒルベルト空間 H\mathcal{H}、自己共役作用素 DD(微分と距離)の三点組で、リーマン多様体に相当する構造を可換性を仮定せずに記述します。
  • 課される条件は本質的に 2 つだけです。すべての a∈Aa\in\mathcal{A} について交換子 [D,π(a)][D,\pi(a)] が有界であること(aa がリプシッツであることに対応)と、DD がコンパクトレゾルベントを持つこと(DD の逆に当たる作用素がコンパクト、すなわち有限階の作用素で近似できること。多様体のコンパクト性に対応)。
  • 距離は道の長さではなく、状態の上の上限公式 d(φ,ψ)=sup⁡{∣φ(a)−ψ(a)∣:∥[D,π(a)]∥≤1}d(\varphi,\psi)=\sup\{|\varphi(a)-\psi(a)| : \|[D,\pi(a)]\|\le 1\} で定義されます。可換な場合これは測地距離に一致します(定理 5.5)。
  • 次元と体積はスペクトルから読み取れます。∣D∣−1|D|^{-1} の特異値の減少度が次元を、ディクシエ跡 Trω(∣D∣−n)\mathrm{Tr}_\omega(|D|^{-n})(通常の跡では発散する和の、発散の速さだけを取り出す跡)が体積を与えます(定理 6.3)。
  • 可換なスペクトル三つ組に 7 つの公理を課すと、逆に A≅C∞(M)\mathcal{A}\cong C^\infty(M) となるコンパクトスピンc{}^{c}多様体(スピン多様体を少し広げたクラス)MM が一意に復元されます(定理 7.1)。「幾何 = 代数 + 作用素」という等式が、両向きに成り立つわけです。
  • 非可換な例の代表が非可換トーラス AθA_\theta(VU=e2πiθUVVU = e^{2\pi i\theta}UV)です。θ\theta が無理数なら単純でトレースは一意、計量次元 22 のスペクトル三つ組をもち、Weyl 漸近は可換トーラスと一致します。一方 τ∗(K0(Aθ))=Z+θZ\tau_*(K_0(A_\theta)) = \mathbb{Z} + \theta\mathbb{Z} から θ\theta が読み取れ、磁場中の電子のギャップラベル定理が導かれます(§8〜§13)。

1. 動機:距離を関数の側から定義し直す

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ゲルファント–ナイマルクの定理(定理 5.6)[C*-代数の基礎] は、可換な単位的 C∗C^*-代数の圏とコンパクトハウスドルフ空間の圏が反変的に同値であることを述べます。この辞書のおかげで、空間を扱う代わりにその上の関数環を扱えるようになり、環の可換性を捨てれば「非可換な空間」の理論が始まります。この出発点については C*-代数の基礎 を参照してください。

しかしこの辞書が翻訳してくれるのは位相だけです。C(M)C(M) という C∗C^*-代数から読み取れるのは、MM がコンパクトハウスドルフ空間であるという情報に尽きます。リーマン計量、次元、体積、微分形式といった微分幾何の道具は、この段階では完全に失われています。

素朴な障害は、リーマン距離の定義の形にあります。dg(p,q)d_g(p,q) は「pp と qq を結ぶ道の長さの下限」でした。ところが非可換代数には点(=指標)が足りず、道はなおさら存在しません。したがって距離を関数の側から定義し直す必要があります。

ここで効くのが、次の初等的だが決定的な事実です。連結なコンパクトリーマン多様体 (M,g)(M,g) 上で

dg(p,q)  =  sup⁡{ ∣f(p)−f(q)∣  :  f∈C∞(M), f は実数値, sup⁡x∈M∣∇f(x)∣g≤1 }d_g(p,q) \;=\; \sup\bigl\{\,|f(p)-f(q)| \;:\; f\in C^\infty(M),\ f \text{ は実数値},\ \sup_{x\in M}|\nabla f(x)|_g\le 1 \,\bigr\}

が成り立ちます。左辺は道についての下限、右辺は関数についての上限で、互いに双対的な言い換えになっています。右辺では点 p,qp,q は「C(M)C(M) 上の評価汎関数 f↦f(p)f\mapsto f(p)」としてしか現れず、MM の点集合としての構造には触れていません。あとは制約条件 sup⁡∣∇f∣≤1\sup|\nabla f|\le 1 を代数と作用素の言葉だけで書けば、そのまま非可換代数へ移植できます。

その鍵がディラック作用素です。スピン多様体上のディラック作用素 DD と実数値関数 ff に対して、L2L^2 スピノルの上で

[D,f]=c(df),∥[D,f]∥=sup⁡x∈M∣∇f(x)∣g[D, f] = c(df), \qquad \bigl\|[D,f]\bigr\| = \sup_{x\in M}|\nabla f(x)|_g

が成り立ちます(命題 4.2)。「勾配の大きさ」という微分幾何的な量が、交換子の作用素ノルムという純粋に作用素論的な量として書き直せたわけです。そして ff を非可換代数の元 aa に置き換えても、∥[D,π(a)]∥\|[D,\pi(a)]\| はそのまま意味を持ちます。これがスペクトル三つ組の全体像です。

スペクトル三つ組の三成分と、そこから取り出される幾何量

歴史的な経緯も一言添えておきます。アティヤは 1970 年に、楕円型作用素を「有界作用素 FF で F2−1F^2-1 がコンパクトなもの」として抽象化し、K ホモロジーの実現を与えました。カスパロフの KKKK 理論とコンヌのフレドホルム加群はこの路線の完成形です。しかし有界作用素 FF に移った時点で、計量の情報は失われます(FF を作るときに DD を ∣D∣|D| で割ってスケールを潰すからです)。バーイとジュルグは 1983 年に、非有界な DD をそのまま保持しても同じ KKKK 類が得られることを示しました。コンヌはこの非有界表示を主役に据え、位相(K ホモロジー類)と計量(距離公式)を同時に扱う枠組みとしてスペクトル三つ組を定式化したのです。

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執筆: Claude Code(Opus 5.5)、Claude Code(Sonnet 5.5)・監査 4 回(Claude Code)・最終 2026-10-12

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